ハプスブルク家とオーストリア帝国【世界史B:ヨーロッパ史補遺】

地域史

ハプスブルク家とは古代ラテン人の有力貴族であるカエサル家の末裔を自称したヨーロッパ随一ともいえる大貴族の家です。現在も500人ほどいると言われています。

 

ハプスブルク家の歴史として、中世から20世紀初頭までヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国(オーストリア公国)、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となっていきました。

 

S先生
S先生

ハプスブルク家の有名なフレーズとして「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」とありますが、政略結婚で力をましていったのですね。

今回の世界史Bはハプスブルク家を中心にヨーロッパの歴史を復習していきます。具体的にはゲルマン民族の大移動あたりから近現代までみていきます。

 

今回の記事のポイント・中欧から東欧にかけて、スラヴ人やマジャール人が新たに建国

・ハプスブルク家はチェック人のベーメンとマジャール人のハンガリーを支配

・オスマン帝国と戦いつつ、オーストリアは領土を東へ拡大

・普墺戦争の敗北で、オーストリアを含む大ドイツ主義は不可能となった

・第一次世界大戦の敗北で、オーストリア=ハンガリー王国は滅亡した

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ハプスブルク家によるベーメン王国とハンガリー王国の支配

(プラハ城:wikiより)

古代、ロシア南部に住んでいたスラヴ人たちはゲルマン人の大移動の後を受けて、現在の中部ヨーロッパや東ヨーロッパに分散して広がりました。

 

西スラヴ族はポーランド人のポーランド王国やチェック人のベーメン王国を建国します。バルカン半島には南スラヴ族のクロアティア人やセルビア人が国を建てました。西スラヴ人も南スラヴ人も、徐々にキリスト教カトリックに改宗します。このあたりについては「ゲルマン民族の大移動」について詳しく記載しています。

9世紀末、東方からやってきたアジア系の騎馬民族であるマジャール人はハンガリー平原に本拠地を構えました。955年に神聖ローマ皇帝オットー1世にレヒフェルトの戦いで敗北したのち、カトリックに改宗します。

 

11世紀中ごろ、ベーメン王国は神聖ローマ帝国の一部となりました。14世紀中ごろのカレル1世(カール4世)はベーメン王と神聖ローマ皇帝を兼任します。神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家が世襲するようになると、ベーメンはハプスブルク家の支配地となりました。

 

17世紀前半、ベーメンではフス派が蜂起し、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝と戦いになりました。この戦いがきっかけで、ドイツ三十年戦争が勃発します。30年戦争後、ベーメンはハプスブルク家領と再確認され、カトリックの支配が確立しました。

 

ハンガリー王国は15世紀に最盛期を迎えます。ところが、この時、西から強大なオスマン帝国が勢力をバルカン半島に拡大してきました。ハンガリー王ジギスムントはオスマン帝国軍とニコポリスで戦い大敗します。その後も、オスマン帝国と戦い続けました。

 

1526年、オスマン帝国のスレイマン1世がハンガリーに攻め込んできました。ハンガリー王ラヨシュ2世はモハーチの戦いでオスマン帝国軍に大敗します。ラヨシュ2世は戦死しました。スレイマン1世については「オスマン帝国」の記事について詳しく記載しています。

 

そのため、ハンガリー王位はラヨシュ2世の義兄にあたるハプスブルク家のフェルディナントのものとなりました。

 

スレイマン1世とハプスブルク家は第1次ウィーン包囲などで攻防を繰り返します。1547年、両勢力の間で休戦協定が結ばれました。

 

協定では、ハンガリーの北部と北西部、クロアティアはハプスブルク家領、首都のブダペストを含むハンガリー中部・南部はオスマン帝国領、東部のトランシルヴァニアは自治領とすることで話し合いがまとまりました。

神聖ローマ帝国の滅亡とオーストリア=ハンガリー帝国の成立

(ウィーン国立歌劇場:wikiより)

ハプスブルク家は1282年以来、神聖ローマ皇帝の位を世襲するようになりました。大空位時代ですね。神聖ローマ帝国のおこりについては「フランク王国分裂と神聖ローマ帝国」の記事に詳しくかかれています。

 

そして、ハプスブルク家は、ハンガリー人やチェック人をはじめ、多くの異民族を従えます。16世紀にはハプスブルク家が皇帝位を独占して全盛期となり、神聖ローマ帝国はハプスブルク帝国と言われるほどに成長します。

 

19世紀初め、ナポレオン戦争の結果、1806年に最後の皇帝フランツ2世が退位し神聖ローマ帝国が完全に滅亡しました。ハプスブルク家はオーストリア皇帝家となります。

 

19世紀中ごろ、保守的なウィーン体制に反発する動きがヨーロッパ各地で展開します。オーストリア領のハンガリーやベーメンでも民族運動が起きました。

 

1866年、オーストリアはドイツ統一の主導権や領土問題などをめぐってプロイセンと普墺戦争を戦い敗北します。以後、オーストリアはドイツの国家というより、ハンガリーやベーメンなどを支配する多民族国家となりました。

1867年、オーストリア政府は帝国第二の民族であるハンガリー人(マジャール人)に妥協し、大幅な自治権を認めました。これにより、ハンガリーには独自の政府と議会が作られます。以後、この国はオーストリア=ハンガリー二重帝国と呼ばれるようになりました。

オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊

(サンジェルマン条約:wikiより)

1914年、ボスニア=ヘルツェゴヴィナをめぐってセルビアと争っていたオーストリアは、サライェヴォ事件をきっかけに、セルビアに宣戦布告。これが引き金となって第一次世界大戦がはじまりました。

4年半にわたる戦いは、イギリス・フランス・アメリカ・日本などの連合国の勝利で幕を閉じます。

 

勝利した連合国は、オーストリアとサン=ジェルマン条約を締結。オーストリア=ハンガリー帝国を解体しました。また、ドイツ帝国、ロシア帝国も第一次世界大戦で滅亡したため、中央から東欧にかけて多くの独立国が成立します。第一次世界大戦については「第一次世界大戦」の記事が詳しいのでそちらも読んでください。

 

旧オーストリア=ハンガリー帝国領は、オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキア、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国などに分割され、オーストリアは共和政となります。さらに、同じドイツ民族の国であるドイツとオーストリアの合邦は禁じられました。

ハプスブルク家のまとめ

 

中欧で勢力を拡大したオーストリアは、オスマン帝国との戦いに勝利することで領土を東へと拡大しました。

 

第一次世界大戦の敗北で、オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、ハプスブルク家は支配者の地位を追われます。中小国の寄り合い所帯となった中欧から東欧の国々は、第二次世界大戦で戦場となってしまいました。

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