オスマン帝国〜メフメト2世からスレイマン1世、領土の地図も(世界史B 第10回)

アジア史【近代】

みなさん、こんにちは。今回も世界史Bのオリエントの歴史を縦断的にみていきます。今回は、オスマン帝国の拡大です。征服王とも呼ばれたメフメト2世の活躍は大事です。また、当時のオスマン帝国の領土の地図も用意していますのでしっかりと頭に理解しましょう。今回は受験に頻出の内容てんこ盛りです。

 

13世紀末に建国されたオスマン帝国は小アジアやバルカン半島に勢力を拡大します。オスマン帝国は中央アジアの雄であるティムールとのアンカラの戦いには敗れますが、メフメト2世以降復活し、スレイマン1世の時には地中海を支配する大帝国を築き上げました。それでは、早速見ていきましょう。

 

今回の記事のポイント・オスマン帝国の拡大はアンカラの戦いの敗北で一時中断した。

・コンスタンティノープルを攻略したメフメト2世は征服王とよばれた。

・最盛期はスレイマン1世の時代。フランスと同盟しカール5世と戦った。

・オスマン帝国軍の中心となったのはイェニチェリ軍団

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オスマン帝国の発展とアンカラの敗北

(コソヴォの戦い:wikiより)

1299年、トルコ人の一派を率いるオスマン1世がオスマン帝国を建国します。(別名、オスマントルコ)2代目オルハンはブルサを征服し、帝国の首都としました。このころから、オスマン帝国はバルカン半島にも領土を拡大します。

 

3代目のムラト1世はスルタンの称号を使用します。バルカン半島への勢力拡大を続けます。1363年、ビザンツ帝国の重要都市アドリアノープルを攻略し、エディルネと改名し遷都しました。1389年、セルビアを中心とするバルカン連合軍をコソヴォの戦いで撃破します。

ムラト1世がコソヴォの戦いの最中に暗殺されると、息子のバヤジット1世が即位しました。バヤジット1世はイェニチェリ軍団をひきいてさらに領土を拡大。電光石火の動きから「雷光」とあだ名されました。

 

1396年、ニコポリスの戦いでハンガリー軍を主力とする十字軍に勝利します。ヨーロッパ方面での優勢を確たるものとしました。しかし、1402年、アンカラの戦いで東方から攻めてきたティムールに大敗します。バヤジット1世は捕虜となり、帝国の発展は一時中断します。

オスマン帝国の再興

(メフメト2世:wikiより)

15世紀前半、アンカラの戦いの混乱から立ち直ったオスマン帝国は再び勢力拡大に乗り出します。1453年、メフメト2世はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略しました。メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブルと改名し遷都します

 

メフメト2世の時代、バルカン半島の大半がオスマン帝国の支配下に入りました。また、黒海沿岸のクリム=ハン国を従属させ黒海の制海権も手に入れました。このため、メフメト2世は征服王とよばれます。

16世紀前半、セリム1世はイランのサファヴィー朝と交戦し、一時、首都のタブリーズを占領するなど優勢に戦いを進めます。その一方、エジプトのマムルーク朝を攻め滅ぼしました。その結果、オスマン帝国はメッカ・メディナの保護権を獲得し名実ともにイスラーム勢力ナンバー1の地位に上り詰めます

オスマン帝国の全盛期

(プレヴェザ海戦:wikiより)

16世紀前半から中頃にかけて在位したスレイマン1世の時代は、オスマン帝国の最盛期です。1526年にモハーチの戦いで勝利しハンガリーを征服、1529年には神聖ローマ皇帝カール5世の都であるウィーンを包囲しました(第一次ウィーン包囲)。

 

(スレイマン1世:wikiより)

外交面ではカール5世と敵対していたフランス王フランソワ1世と同盟します。恩恵としてフランス商人に領事裁判権や治外法権を認めるカピチュレーションを認めます。

 

カピチュレーションとは、スマン帝国が領内在住の外国人に対し恩恵的に認めた特権です。通商・居住の自由、租税免除、身体・財産・企業の安全などを保障しました。 オスマン帝国が衰退した時、カピチュレーションは西欧列強の侵略の口実とされました

 

1538年、プレヴェザの海戦でオスマン帝国はスペイン・ヴェネツィア連合軍に勝利します。地中海の制海権を握ります。しかし、スレイマンの死後の1571年、レパント海戦オスマン帝国はスペイン海軍に大敗し制海権を失いました

オスマン帝国の統治

(イェニチェリ:wikiより)

オスマン帝国はスルタンを頂点とする専制国家でした。スルタンを支える軍事力の柱はイェニチェリとシパーヒーです。イェニチェリは皇帝直属の歩兵軍団、シパーヒーはトルコ人騎兵のことです。ちなみに、シパーヒー(セポイ)はインドで大反乱を起こします。詳しくは、「【世界史B】受験に役立つインド史(イギリスのインド支配)」をお読みください。

 

特にイェニチェリはオスマン帝国軍の支柱となり帝国の勝利に貢献しました。イェニチェリはデウシルメ制度で強制的に徴兵されたキリスト教徒の子弟で、イスラーム教に改宗したうえで皇帝の近衛軍団として活躍します。

 

ちなみに、デウシルメとはトルコ語で「集めること」を意味し、オスマン帝国に特異な常備軍兵士の補充方法です。バルカン半島に住むキリスト教徒の農民の子供たちの中から、8歳から20歳ぐらいの健康な少年が選ばれ、イスラム教に改宗させられイェニチェリの兵士となりました。マムルークと違い兵士徴用に金銭的負担がかからないことから好まれました。

 

また、オスマン帝国内の諸民族は宗教にもとづく共同体を組織していました。これをミッレトといいます。ミッレトは帝国に税を納める義務がありましたが、それと引き換えに自治や固有の信仰が認められました。

まとめ

小アジアの建国されたオスマン帝国は指導力のあるスルタンたちに率いられ休息に勢力を拡大しました。アンカラの戦いで一時的に混乱しますが、メフメト2世の時代にコンスタンティノープルを攻略します。

 

名実ともに東地中海の大国へと成長しました。その後、マムルーク朝も滅ぼしたオスマン帝国はイスラーム世界ナンバー1の大国となります。最盛期のスレイマン1世の時代にはフランソワ1世と同盟しカール5世と戦いました。

 

次回は「オスマン帝国の衰退」についてです。

前回の記事「【世界史B】受験に役立つオリエント史(ティムール朝とサファヴィー朝)

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