中国の唐王朝から清王朝までの王朝と周辺国家の関係について解説【世界史B】

みなさん、世界史で中国の歴史は覚えていますか?

 

まあ、おおよそ覚えていますよ。ただ、その周辺の王朝がこんがりますけど
たなか君
たなか君

 

そう、入試では、中国の歴史自体単体を問われることもありますが、その王朝の周辺の王国との関係性が問われることが多いです。そこで、今回は、特に入試で問われる頻度が高い中国の唐代から清代にかけて王朝とその周辺の王国についてまとめてみました。

 

とくに、各王朝を周辺諸国と比較した視点は2次試験で記述で問われることもありますので必ず理解するようにしましょう。

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国際色豊かな唐と周辺国家

(唐代の周辺諸国について:wikiより)

唐は618年に李世民(太宗)が興した中国の王朝です。この王朝は冊封体制を中心ににより周辺王国を統治します。

 

冊封体制とは中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認め(冊封)、宗主国対藩属国という従属的関係を結びます。

 

唐代で有名な冊封国が、渤海、南詔、新羅です。なお、当時ベトナムは唐の支配圏内で安南都護府が置かれていました。また、基本的にウイグルとは友好関係にありました。

 

ちなみに吐蕃はソンツェン・ガンポ王の時代には、唐と友好的な関係にありましたがその子供の時代から確執が生じ、戦争を行っていました。吐蕃は唐の制度を参考に国を整えており唐と戦っていけると考えたのでしょう。

 

ちなみに唐についてより詳しい内容は「【世界史B】隋唐帝国と唐代の文化(受験に役立つ中国史)」を見てください。

【世界史B】隋唐帝国と唐代の文化(受験に役立つ中国史)第5回 
こんにちは。今回は隋唐帝国と唐代の文化について解説します。世界史の中国史の中でも受験でかなり出題される大きな範囲です。 今回の隋唐帝国と唐代の文化の内容として、まず、隋を建国した楊堅は南朝の陳を滅ぼし370年ぶりの統一王朝を樹立しました。し...

宋の華夷思想と周辺国家

(宋の時代の周辺国家:wikiより)

趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した国が宋です。

 

宋は、冊封体制をしっかりと取っていた唐と異なり、周囲に影響力を発揮できない弱い王朝でした。周辺諸国が当時独立した力を持っており征服しきれなかったこともあり、思想が外へ向かず内向的な国粋主義的な華夷思想が力をもつことになります。

 

周辺諸国について見ていきましょう。

 

まず、キルギスがウイグルを討ちます(840年)。そして、ウイグルのあった場所に遼が建国されます。契丹(キタイ族)耶律阿保機が建国した国です。そして、遼は渤海を926年に滅ぼします。

 

また、中国西北部では党項(タングート族)の首長李元昊が現在の西夏を建国します。また、西夏が建国されたことにより宋はシルクロードを失い、マリンロード(海の道)により貿易が発達します。マリンロードでは陶磁器を中心に運ばれ、宋磁が有名になりました。

 

また、吐蕃も唐の弱体化とともに国内で争いが起こり滅び、チベットになります。また、南詔があった地域には、937年に白蛮出身の段思平が大理という国を樹立します。

 

ベトナムは唐の時代は唐の直轄地で安南都護府が置かれていましたが、唐の滅亡後、大越という国が李朝を建国しました。

 

朝鮮半島では新羅が農民反乱により国が滅びました。そして、918年に王建(太祖)が高麗を建国し朝鮮半島を支配する国家になりました。

 

さらに、渤海があった地域は遼が征服していましたが、そこに住んでいた女真族に対して搾取が行われいたことから女真族完顔阿骨打が反乱を起こし、1115年に按出虎水の河畔で即位し、という国をつくりました。

 

以上、簡単にまとめてみました。

国名建国者部族唐代に支配していた国
耶律阿保機契丹ウイグル
西夏李元昊党項
大理段思平白蛮(チベット)南詔
大越(李朝)李公蘊ベトナム唐(安南都護府)
完顔阿骨打女真渤海
高麗王建朝鮮新羅

 

宋については「【世界史B】宋と北方民族【受験に役立つ中国史】第7回」を参考にしてください。

【世界史B】宋と北方民族【受験に役立つ中国史】第7回
こんにちは。今回は宋の建国から北方民族(遼、西夏、金)との攻防から南宋の建国について語ります。今回の範囲は出題されやすく、特に靖康(せいこう)変など漢字を書かせることが多いので書ける練習をしておきましょう。また、位置関係として地図やをしっか...

元代と周辺諸国(モンゴルと3ウルス)

(モンゴル帝国)

元の時代では、中国と周辺と捉えるよりも、モンゴル帝国と捉えた方が正確です。

 

そして、モンゴルでは、チンギス、オゴタイ、モンケ、フビライの4人のハン(汗)の時代にどのように周辺を制圧していったのか見ていきます。

 

なお、モンゴル帝国は「元」を宗主として、フラグの建国したイル=ハン国、バトゥの建国したキプチャク=ハン国、チャガタイを祖とするチャガタイ=ハン国の3ハン国(ウルス)で構成されていました。

 

なお、西方のイル=ハン国やキプチャク=ハン国は独自路線を進み、後にイスラーム化していきます。

 

また、人間関係がかなりややこしいので、家系図をまとめてみました。参考にしながら読んでください。

 

チンギス=ハン時代(地図上では黄色)

チンギス=ハンはモンゴル民族を統一を図り民族をまとめます。

 

1220年mチンギス=ハンの次子チャガタイにホラズム王国を制圧させました、チャガタイはその功績によりイリ川流域アルマリクを中心とした中央アジア(西トルキスタン)にチャガタイ=ハン国を建国します。

 

その後、チンギス=ハンは西夏を攻めてる最中に死亡します。勿論、結果、西夏もモンゴルに滅ぼされてしまいます。

 

チンギス=ハンは、実に苦労の連続で、その生涯の話を描いた横山光輝の「チンギス・ハーン(成吉思汗)」はかなり面白いです。

オゴタイ=ハン時代(地図上では赤)

第2代目のオゴタイ=ハンは1234年、金を滅ぼしました。また、モンゴルの都をカラコルムに定めました。

 

そして、長男ジュチの息子バトゥをヨーロッパ遠征に派遣します。バトゥの軍はロシアの地に侵入して1240年にキエフ公国を滅ぼします。

 

バトゥはさらに部隊をポーランドやハンガリーにまで侵攻し、1241年にはワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を撃破します。

 

しかし、遠征中にオゴタイが死去したので、モンゴルの支配はロシアまでにとどまりました。なお、この地にバトゥは1243年にキプチャク=ハン国を建国しました。ちなみにキプチャクとはカスピ海北岸から南ロシア、カザフスタンの草原地帯で遊牧生活を送っていたトルコ系の民族名を指します。

 

モンケ=ハン時代(地図上では水色)

第4代のモンケの時には、弟のフビライをチベット、さらに雲南方面に派遣して大理を滅ぼしました。また、高麗も滅ぼします。

 

さらに弟のフラグにイラン方面を侵攻させ、1258年にバクダードを占領し、アッバース朝を滅ぼしました。これにより、モンゴルはイラン高原からメソポタミアを制圧し、エジプトのマムルーク朝の勢力の及ぶシリア方面まで制圧したことになります。

 

なお、フラグは、モンケの死亡後、ハンに選出されなかったことから征服した地にイル=ハン国を建国します。イル=ハン国はエジプトのマムルーク朝と敵対し続けました。

フビライ=ハン時代(地図上では緑)

フビライは、日本を攻めますが文永・弘安の役で敗退し日本を侵攻することはできませんでした。

 

しかし、1276年に南宋を滅ぼし、支配はビルマからジャワなど東南アジアに及びました。フビライは3ウルス以外の地域を元という名前で統治しました。

 

元については「【世界史B】モンゴル帝国と元(受験に役立つ中国史)」を参考にしてください。

【世界史B】モンゴル帝国と元(受験に役立つ中国史)第9回
こんにちは。今回は中国史のなかでモンゴル帝国と元について述べます。中国が金と南宋に分かれていたころ、モンゴル高原でチンギス=ハン(チンギス・ハーン)が急速に勢力を拡大。モンゴルを統一します。 圧倒的な武力を誇るモンゴル帝国は次々と周辺諸国を...

明代とその周辺諸国

明代の周辺諸国の関係ですが、受験に出題されるのは、3代皇帝の永楽帝時代の鄭和の大航海と6代皇帝正統帝(英宗)以降の北虜南倭に関してです。

 

鄭和の大航海について

3代皇帝永楽帝の命令によって鄭和を指揮官として南海大遠征が行われました。2万数千人の乗組員をもつ大艦隊で行われました。

 

その訪問地として、マラッカ海峡のマラッカ王国を覚えておきましょう。マラッカ王国は当時、タイのアユタヤとジャワのマジャパヒトと関係がよくなかったのですが、鄭和の来航以来、明に朝貢して力をつけていきました。

 

また、マラッカ王国は、鄭和がイスラム教徒ということもあってか、国王がイスラム教に改宗しイスラム教が広まりました。そして、ヒンドゥー教国だったマジャパヒトをマラッカが力をつけたことでマジャパヒト王国の商業活動を抑え込み、東南アジア最大の貿易拠点として繁栄しました。

 

ちなみに、マラッカ王国は明の冊封国になりますが、この時期に琉球王国も冊封国になっているので注意しましょう。

 

さらに、鄭和は南インドのヴィジャヤナガル王国カリカットに到達します。その後、1498年にポルトガルのバスコ=ダ=ガマ船団がこの地に到着します。ヴァスコ・ダ・ガマの訪れる90年以上前に鄭和がこの地を訪れていたことは覚えておきましょう。

 

さらに、鄭和はイスラム教徒でしたが、当時メッカにはマムルーク朝が支配していたことからかメッカまでは行っていないことも注意です。なお、イラン方面は当時はイルハン国ではなくティムール朝が支配していたことも知っておきましょう。

北虜南倭について

北虜南倭とは南北から明朝が外敵に脅かされたことを指します。具体的に 北虜はモンゴル人、南倭は倭寇(後期倭寇)を指します。

 

6代皇帝正統帝(英宗)は西モンゴリアにあるオイラトの王エセン1444年土木の変で敗北し捕虜にされてしまいます。

 

S先生
S先生
ちなみに、後にオイラトと明は講和がなされて正統帝は無事に明に戻ります

 

東モンゴリアではタタールの王アルタンが1550年に8日間の北京城を包囲するという事件が起こりました。

 

なお、南倭である倭寇は日本を指します。

 

明の話は「洪武帝と永楽帝の明について受験で覚えておきたい4つのポイント」を参考にしてください。

【世界史B】洪武帝と永楽帝の明について受験で覚えておきたい4つのポイント【受験に役立つ中国史第11回】
こんにちは。洪武帝とは、明を建国した朱元璋の皇帝の名前で、彼は明の政治政策の基礎を作りました。 また、靖難の役の後、洪武帝の息子が永楽帝となり、鄭和に南海遠征をおこなうなど積極的な体外政策を行いました。 土木の変をきっかけに16世紀から17...

清とその周辺諸国

まず、初代ヌルハチは満州を支配下に置きます(1616)。そして、二代目ホンタイジは内モンゴル、朝鮮を支配します。

 

三代目の順治帝は、明を1644年に滅ぼします。その時、明朝の武将が清に寝返り清の国内平定に功績のあった者を藩王に封じました。その地域を三藩といいます。また、明の武将鄭成功は台湾に逃亡し、そこを占拠しました。

 

四代目の康煕帝は三藩を制圧し(1681)、台湾、外モンゴル(現:モンゴル)までを支配地域に置きます。そして、雍正帝はチベットを支配におきます。乾隆帝は1759年に東トルキスタンを制圧し新疆を作ります。

 

詳しくは「ヌルハチから康煕帝、雍正帝、乾隆帝までの清代皇帝について知るべき4つの点」を参考にしてみてください。

【世界史B】ヌルハチから康煕帝、雍正帝、乾隆帝までの清代皇帝について知るべき4つの点【受験に役立つ中国史】
こんにちは。今回はヌルハチ、ホンタイジ、順治帝、康煕帝、雍正帝、乾隆帝といった清代の皇帝について受験で知っておくべきポイントをまとめました。 簡単にいうと、そもそも中国東北部にある満州に住んでいた女真族はヌルハチの下で勢力を拡大し、後金を建...

唐から清までの周辺諸国のまとめ

以上、唐から清までの周辺諸国についてまとめました。

 

唐が冊封体制で周辺地域を抑えていたのに対し、宋は周囲の国が力を持ち、華夷思想を反映せざるえない状況になります。

 

また、元はモンゴル人の大帝国の一つの占領地域という扱いになり、モンゴル帝国内での周辺国家との付き合いが生まれます。

 

さらに、明は鄭和と北虜南倭の関係性、清は元と同様、女真族という異民族が版図拡大の過程で支配する形になります。

 

より詳しくは「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」を参考にしてみてください

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