ヨーロッパの歴史において近代の始まりと言えるのが、宗教改革、ルネサンス、大航海時代の3つです。
ルネサンスは受験に役立つヨーロッパの歴史【近代編その1】(ルネサンス)にて扱いました。
また、大航海時代についも受験に役立つヨーロッパの歴史【近代編その2】(大航海時代)にて詳述してます。
各々記事を読んでいない人は是非とも読んでください。
【宗教改革】では、ヨーロッパのキリスト教世界がカトリックとプロテスタントに分かれて激しく争った時代について扱います。
また、入試では「2020年受験用 全国大学入試問題正解 15 世界史」によれば、名城大、関西学院、法政大学から出題されています。
ちょっと問題をみてみましょう。
ルターが批判したカトリック協会の悪弊とは何か、説明せよ。【名城大第2問1】
解説はルターのところで行います。
ヨーロッパの人々にとって、キリスト教は生活の一部でした。宗教について争うということは、自分たちの考え方や生活について争うことになります。ヨーロッパ人に大きな影響を与えた宗教改革について一緒に勉強していきましょう。今回の記事のポイントは以下の通り。
今回の記事のポイント・ルター以前の宗教改革者はウィクリフとフス
・ルターは贖宥状に対する疑問から聖書中心主義を唱えた
・ドイツはルター派とカトリックに分かれて宗教戦争に突入した
・カルヴァン派はスイスだけではなく、北西ヨーロッパを中心に勢力を拡大
・ユグノー戦争はアンリ4世のナントの王令で終息
・対抗宗教改革の中心はイエズス会
ルター以前の動き
(フス戦争:wikiより)
14世紀後半、イギリスのウィクリフはローマ教会の言うことよりも、聖書に書かれている内容に従うべきだと言い出しました。人々を救うべき教会や修道院が財産をため込んでいるのがおかしいと考えたからです。
ウィクリフの影響を受けたのがベーメン(現在のチェコ)のフスでした。フスも聖職者の蓄財や不正を強く批判します。フスの考えはベーメンの人々に広く受け入れられました。
これに危機感をもったローマ教会はコンスタンツ公会議でフスを異端と認定して処刑してしまいます。これにベーメンの人々が怒ったため、フス戦争が起きました。
一方、ウィクリフは脳卒中で死にますが、死後、公会議で異端とされ遺体を燃やして川に投げ込まれます。
ウィクリフがイギリス人、フスがベーメン(チェコ)人であることにも注意しましょう。
ドイツの宗教改革
(ルターの95条の論題張り出し:wikiより)
宗教改革の時代、ドイツは「ローマの牝牛」とよばれていました。皇帝の力が弱く、教会が税を取り立てやすかったからです。
ローマ教皇レオ10世はサン=ピエトロ大聖堂の改修費用をドイツから手に入れようとしました。
そのために教皇が行ったのが「贖宥状(しょくゆうじょう)」の販売でした。ローマ教会は贖宥状を買うと、その人の罪が許されるため免罪符ともいいます。この贖宥状に対し疑問を持ったのがヴィッテンベルク大学の神学教授だったルターでした。
先ほどの名城大学の回答は以下の通りです。
ルターは贖宥状の問題に対して「95条の論題」をラテン語で発表し、後にドイツ語に翻訳され話題を呼びました。
その後、ルターは『キリスト者の自由』の中で教会批判を展開します。教皇の破門予告状も焼き捨てます。神聖ローマ皇帝カール5世はルターをヴォルムス帝国議会に呼んでルターに考えを改めさせようとします。しかし、ルターは拒否し、結果、神聖ローマ帝国追放を宣言されました。
追放された後、ルターは新約聖書をドイツ語に翻訳します。
従来、聖書はラテン語であり、ラテン語は一部の知識人しか使用できなかったため一般人は聖書の内容を知ることができず教会の考えを盲信してきました。
しかし、ルネサンスの発明品であるグーテンベルクの活版印刷技術の普及によりドイツ語に訳された聖書がヨーロッパ中に普及します。これによりルターの考えに共感する人が増えてきます。
ルターの教会批判に賛成する人たちはプロテスタント(抵抗する人々)とよばれます。ローマ教会の信仰はカトリックといいます。以後、ヨーロッパではプロテスタントとカトリックが対立する宗教戦争の時代に突入しました。
ルネサンスについては受験に役立つヨーロッパの歴史【近代編その1】(ルネサンス)にて記載していますので読んでない人は読んでみてください。
https://wearewhatwerepeatedlydo.com/eropian-history16/
ドイツを中心とした宗教戦争
(シュマルカルデン戦争:wikiより)
ヴォルムス帝国議会の後、ルターを支持する諸侯(大貴族)たちは、カトリック派の皇帝と戦うためシュマルカルデン同盟を結成します。ルター派諸侯と皇帝によるシュマルカルデン戦争(宗教戦争)が始まりました。
1555年、アウクスブルクの和議が成立します。この和議で、カトリックかプロテスタントかを諸侯や都市が選択できるようになりました。しかし、認められたのはルター派のみでカルヴァン派などほかのプロテスタントは認めませんでした。
1618年、カトリック派の皇帝(ハプスブルク家)とベーメンのプロテスタントが衝突することで三十年戦争が始まります。この戦いの中でプロテスタント側にスウェーデン国王のグスタフ=アドルフが参加するなど混乱を極めます。長い戦いのせいでドイツは荒れ果て、ドイツ統一がさらに遅れました。1648年、ウェストファリア条約でカルヴァン派も公認され、ドイツの宗教戦争は終わりました。
なお、この30年戦争の惨状をみて、オランダのグロティウスは「戦争と平和の法」を書き、国際法の基礎を作ります。
ちなみに、このウェストファリア条約で、カルヴァン派の容認以外にも、フランス・スウェーデンの領土拡大、スイス・オランダの独立が承認されます。神聖ローマ帝国の分裂が決定的になる条約なので必ず覚えましょう。
アウグスブルク和議とウェストファリア条約の覚え方をまとめてみました。(2019年青学で出題されたので注意!)
アウグスブルク和議とウェストファリア条約アウグスブルクでイゴ、ゴゴ(1555)にてルターが認められ、ウエストファリアでヒーローしわ(1648)だらけのカルヴァンが認められた。
カルヴァン派の活動
(ルター(右)とカルヴァン(左):wikiより)
1523年、スイスのチューリヒでツヴィングリが宗教改革を始めます。1536年にカルヴァンが『キリスト教綱要』を発表。その5年後にカルヴァンはジュネーヴで宗教改革を始めました。
カルヴァンは人が救われるか否かは初めから決まっているとする「予定説」を唱えます。カルヴァンの考え方はイングランド、スコットランド、オランダ、フランスに広まりました。各地域によって呼び名が違うのでリストにしました。
地域 | カルヴァン派の呼び名 |
スコットランド | プレスビテリアン |
イングランド | ピューリタン |
オランダ | ゴイセン |
フランス | ユグノー |
1562年、フランスのカルヴァン派であるユグノーはカトリックを重視するフランスの王家や保守派の貴族たちと戦争となりました。この戦争をユグノー戦争といいます。戦いは40年にわたって続きました。
1589年、ユグノーのアンリ4世が即位しブルボン朝を開きます。アンリ4世はカトリックに改宗したうえで、ユグノーにも信仰の自由を認めるナントの王令を出しました。
プロテスタントの戦争のまとめ
最後に、プロテスタントの戦争について今回の話を簡単に表にまとめてみました。整理して覚えてください。
場所・年号 | 戦争名 | 終結時の条約 | 補足 |
フランス(1562〜1598) | ユグノー戦争 | ナントの王令 | プロテスタントの信仰の自由を認めた |
ドイツ(1546〜1547) | シュマルカルデン戦争 | アウグスブルクの和議 | ルター派のみ認められた |
ドイツ(1618〜1648) | 三十年戦争 | ウェストファリア条約 | カルヴァン派も認められた |
ピューリタンの補足
このカルヴァン派のピューリタンですが、自分の人生は神によってすでに決まっており、決まっているが故に正しい人は正しく生き、清貧を旨とします。
努力と清貧を重ねることが大事という禁欲主義が資本主義を生み出すことになる、とマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で著しています。
禁欲が逆に資本主義を生み出すというのは皮肉というかかなり面白い発想ですよね。
世界中で色々とお金やそれを取り巻く環境はあったのになぜ、ヨーロッパで資本主義が成立したのかという問いに対し、ウェーバーはこの当時のプロテスタントについての膨大な資料を丹念に読み取り資本主義について研究しています。日経BPからその翻訳が出ていますがすごくわかりやすいです。
受験にはほぼ出ないですが、歴史と我々の生活との関係を再確認できめちゃくちゃ面白いので是非とも読んでみてください。
対抗宗教改革とイエズス会
(フランシスコ=ザビエル:wikiより)
プロテスタントによる攻勢に対抗するため、カトリックも団結しました。宗教改革に対抗する動きのため、対抗宗教改革、または反宗教改革といいます。1545年に開かれたトリエントの宗教会議では教皇が教会の指導者であることを再確認しました。
また、スペイン出身のイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエルはイエズス会を結成。イエズス会は東南アジアやインド、中国、日本に宣教師を派遣してカトリックの布教に努めます。
ザビエルは日本史の勉強でも出てきましたね。ちなみに、頭の禿げた部分はトンスラといって僧になるために剃髪する必要がありました。実際は、髪が頻繁に生えてくるので剃るんが大変だったそうです。
コメント