【世界史B】ビザンツ帝国(東ローマ)が滅亡するまで(場所を記載した地図あり)

ヨーロッパの歴史【中世編】

こんにちは。今回は、ビザンツ帝国の成立から滅亡の歴史についてお話をします。ビザンツ帝国とは、東ローマ帝国の別名です。ビザンツ帝国の場所を記載した地図もあるのでしっかりと理解しましょう。

 

ビザンツ帝国は縮小しつつも1000年にわたってビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープルを中心に反映しました。ビザンツ帝国の誕生から滅亡までをまとめます。

 

今回の記事のポイント・東ローマ帝国は別名をビザンツ帝国という

・ビザンツ帝国の最大領土はユスティニアヌス帝のころ

・テマ制を採用したころから、ビザンツ帝国のギリシア化は進行

・東西教会は完全に分離し、ギリシア正教会が成立

・1453年、コンスタンティノープルが陥落。ビザンツ帝国は滅亡した

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ローマ帝国の東西分裂とビザンツ帝国の成立

(テオドシウスの城壁:wiki)

330年、ローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス帝は首都をローマから東方のビザンティウムに移し、都市の名をコンスタンティノープルと改めました。395年、ローマ帝国を最後に統一したテオドシウス帝が死ぬと、帝国は東西に分裂します。詳しい経緯は「ゲルマン民族の大移動」を読んでください。

 

ちなみに、東ローマ帝国ができたきっかけであるローマ帝国の衰退の原因については、以前の記事「帝政ローマ」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。

 

ローマ帝国の東半分を受け継いだため、東方の帝国は東ローマ帝国といいます。また、ビザンティオンに都を移したため、ビザンツ帝国(ビザンチン帝国)とも呼ばれますね。

ユスティニアヌス帝の時代

(ハギア=ソフィア:wikiより)

6世紀前半、農家の出身から皇帝にまで上り詰めた人物がいました。彼の名はユスティニアヌス。ビザンツ帝国最大の領土を築いた皇帝です。

 

ユスティニアヌス帝は西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン人諸国家が乱立していた西方に軍を派遣します。東ゴート王国やヴァンダル王国を滅ぼし、一時的にローマ帝国の地中海支配を再現しました。ちなみに、ユスティニアヌス帝時代の東ローマの地図は以下のとおりです。

また、東方のササン朝ペルシアとはたびたび交戦します。シルクロードの派遣をめぐって争います。ササン朝ペルシアについては、以前の記事「ディアドコイからパルティア、ササン朝まで」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。

 

国内政治ではトリボニアヌスに命じた『ローマ法大全』の編纂やハギア=ソフィア大聖堂の建設などがあげられます。ハギア=ソフィアはビザンツ様式の最高峰でしょう。

ビザンツ帝国の変質

(ハリストスのイコン:wikiより)

ユスティニアヌスの死後、ビザンツ帝国は領土を縮小します。7世紀初めに在位したヘラクレイオス1世軍管区(テマ)制屯田兵制を採用し軍備の強化を図ります。テマ制とは、装備を自分で用意できる自由農民を兵士とし、国土の防衛に当たらせる制度を指します。また、屯田兵制とは兵士に土地を与えて耕作させ、生産物を地代としてとる土地政策をいいます。どちらも兵農一致の政策です。

 

しかし、それでも、イスラームによる勢力拡大を防ぎきれず、エジプトを失いました。

 

ギリシア語が公用語とされたのもヘラクレイオス1世のころです。もはや、ビザンツ帝国はローマ帝国というよりギリシア人の帝国といったほうが実態に即しているでしょう。

 

726年レオン3世聖像禁止令を発布します。しかし、これにより西方教会との関係が悪化します。867年には東西両教会が双方を破門し、仲違いしてしまいました。1054年には教会の東西分離が確定し、ギリシア正教会が成立します。詳しくは「ローマ教会の歴史:成長編」の記事をお読みください。

 

11世紀に入ると東方からセルジューク朝がビザンツ帝国領土の小アジアに侵入します。1095年、皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に援軍を要請しました。

 

ローマ教皇ウルバヌス2世クレルモン公会議で十字軍の結成を呼びかけました。十字軍については、以前、受験に役立つヨーロッパの歴史第9回「ローマ教会の歴史:絶頂衰退編」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。ちなみに下の地図は当時の勢力図なのでおさえておきましょう。

ビザンツ帝国の衰退と滅亡

(メフメト2世の入城:wikiより)

十字軍を西ヨーロッパから呼び込んでも、セルジューク朝をはじめとするイスラーム勢力を食い止めることはできませんでした。それどころか、1204年の第四次十字軍帝国首都のコンスタンティノープルを占拠しラテン帝国を立ててしまいます

 

ビザンツ帝国の生き残りは小アジアにニケーア帝国を建国しラテン帝国に抵抗します。1261年にラテン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国を復興させます。

 

しかし、このころ小アジアでは新興勢力であるオスマン帝国が力を増しつつありました。オスマン帝国については、以前、「オスマン帝国の拡大」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。

 

ビザンツ帝国は、オスマン帝国に圧迫され領土の大半を失ってしまいます。そして、ついに首都コンスタンティノープルなどわずかな土地を残すだけの小勢力に転落しました。

 

1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国軍がコンスタンティノープルを攻撃します。首都コンスタンティノープルが陥落し最後の皇帝コンスタンティヌスが死ぬことでビザンツ帝国は名実ともに滅亡しました。コンスタンティノープルの陥落については塩野七生先生の著書が詳しく書いてますのでぜひともおすすめです。

ビザンツ帝国のまとめ

千年帝国ともたたえられたビザンツ帝国は、徐々にギリシア化しつつも長期間にわたって小アジアやバルカン半島を支配しました。

 

しかし、イスラーム勢力の台頭により主要な領土を次々と奪われ、最後は首都コンスタンティノープルのほか、ほんのわずかな土地を残すのみの小さな国家になってしまいました。コンスタンティヌスの陥落により、多くの知識人が西欧に亡命。ルネサンスの原動力の一つとなりました。

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