17世紀後半の西、東南アジアの近現代史まとめ【世界史B】

みなさんこんにちは。

 

今日は、17世紀後半のアジア諸国についてきちんと理解していますか?

 

たなか君
たなか君
ここらへんの流れは正直戦争や人が多くよくわかりません!!

 

正直、世界史を勉強していて17世紀以降のアジア近現代史は出題頻度が高い割にあまり勉強されていない感じがします。

 

整理するのがかなり大変なので、今回は近現代のアジアを縦軸から見ていって理解を深めていきたいと思います。

 

整理して覚えるために簡単な表を作成したのでこちらも参考にしてください。

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オスマン帝国とその領土について

(アブドゥル=ハミト2世:wikiより)

オスマン帝国では領土縮小とタンジマートという改革が進んでいました。

 

そして、1876年アブデュル=ハミト2世の治世の下、宰相ミドハト=パシャはアジアで初の憲法となるミドハト憲法を制定します。議会の開設や責任内閣制などが採用され、ムスリムと非ムスリムの完全平等などが決まります。

 

しかし翌年1877年、ロシアとの戦争で露土戦争が始まると、ミドハト=パシャは追放され、アブデュル=ハミト2世は国内の権限を強めようとします。

 

そして、戦争はオスマン帝国の敗北に終わり、翌1878年のロシアとの講和条約(サン・ステファノ条約)でセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立とブルガリアへの自治権付与を認めます。(後のベルリン会議で一部領土は返還されますが、かなりの領土を失う結果になります。)

 

こうした中、日露戦争で日本がロシアに勝利すると、トルコ国内も刺激を受けます。そこで1908年青年トルコ人革命を起こし、アブドゥルハミト2世を退位に追い込みました。

 

但し、諸外国からはさらに狙われることになり国内の弱体化は続きました。

 

この一連の流れについては「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(オスマン帝国の縮小とバルカン問題)」が詳しいのでそちらを読んでください。

【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(オスマン帝国の縮小とバルカン問題)【近現代編その8】
こんにちは。今回も受験生に役立つヨーロッパの歴史シリーズをはじめます。 前回は、帝国主義について各国の植民地化政策について学びました。詳しくは「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(帝国主義の成立とアフリカの植民地化)【近現代編その7】」を...

 

そして、第一次世界大戦後、弱体化の進むオスマン・トルコはセーブル条約で事実上解体の憂き目にあいます。すると、国民的な抵抗運動が高まり、その指導者ケマル=パシャ(ムスタファ=ケマル、ケマル=アタチュルク)が新政権を打ち立てます。

(ケマル=パシャ)

そして、セーブル条約を破棄し、改めて1923年ローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土を回復し、独立と治外法権の撤廃を認めさせました。

 

この流れについては「カルロヴィッツ条約とオスマン帝国の衰退」を御覧ください。

カルロヴィッツ条約とオスマン帝国の衰退【世界史B】【受験に役立つオリエント史(第11回)】
今回は、引き続きオスマン帝国の歴史について講義を行います。16世紀に最盛期を迎えたオスマン帝国は、17世紀後半に衰退期に入ります。 このオスマン帝国の衰退のきっかけを作ったのがカルロヴィッツ条約です。 カルロヴィッツ条約とは、1699年にオ...

 

アラビア半島について

アラビア半島では、ワッハーブ(正式名:ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ)がイスラーム教の改革運動を豪族のサウード家の協力とともに展開しました。ワッハーブは厳格な原始イスラーム教を復活させようとします。

 

そして、ワッハーブ派はメッカ、メディナを占領しました。脅威を感じたオスマン帝国のマフムト2世は、エジプト総督ムハンマド=アリーに出陣を要請します。

 

エジプト軍は、その後メッカを奪回し、さらにアラビア半島中央部まで侵入し、サウード家の拠点ダルイーヤを攻撃し、1818年にワッハーブ王国を陥落させました。

 

しかし、第一次世界大戦後にサウード家は、アラビア半島の統一を達成し、1932年にサウジアラビア王国として独立しました。

エジプトについて

エジプトではムハンマド=アリ−が1818年にトルコの要請でワッハーブ王国を滅ぼし、エジプトの自立のために動きます。

 

その後、エジプトは、独立の動きの中で金策に苦しみ1875年スエズ運河の株をイギリスに売却し、エジプトはイギリスの保護国化となります。

 

そして、第一次世界大戦後、直接的な支配が不可能であると判断したイギリスは、1922年にエジプトを独立させることになりました(エジプト革命)。

 

詳しい流れは「エジプトのムハンマド=アリーによる独立とイギリスによる保護国化」をお読みください。

エジプトのムハンマド=アリーによる独立とイギリスによる保護国化【世界史B】第12回
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イランとアフガニスタンについて

(レザー=ハーン:wikiより)

カージャール朝ペルシャは、1787年、トルコ系カージャール族がテヘランを首都としてカージャール朝ペルシアを開きました。この王朝はシーア派王朝であることに注意。

 

ロシアの南下政策が強まり、第1次イラン=ロシア戦争が起きるとカージャール朝はロシアに大敗します。1828年カージャール朝はトルコマンチャーイ条約でアルメニアの割譲とロシアに領事裁判権(治外法権)を認めました。

 

それに対し、1848年にバーブ教徒の反乱やタバコ=ボイコット運動が起こります。そして、1906年ガージャール朝専制に反対し憲法と議会の獲得と維持を主要な目標とするイラン革命が起こります。ただ結果は失敗でした。

 

第一次世界大戦では、オスマン・トルコが侵攻したり、イギリスに駐兵権を認めてイギリス支配が強まるなど国内の混乱が続きます。

 

そして、1925年、レザー=ハーンがクーデタを実行し、パフレヴィー朝を建国しました。1935年、パフレヴィー朝は国号をペルシアから「イラン」と定めます

 

S先生
S先生
「イラン」の語源は、「アーリア」人の「アーリア」の音が変化したものです。宗教ではなくアーリア民族という民族主義を打ち出したことによります。

 

詳しい流れは「【世界史B】カージャール朝とワッハーブ王国」を御覧ください。

【世界史B】カージャール朝とワッハーブ王国【受験に役立つオリエント史第13回】
こんにちは。【世界史B】受験に役立つオリエント史シリーズをはじめます。今回はカージャール朝イランとワッハーブ王国についてです。カージャール朝の場所はイランでワッハーブ王国の場所はアラビアにあります。 今回のざっくりとした内容ですが、トルコ系...

 

アフガニスタンについて

1904年に日露戦争で、ロシアが日本に敗れたことを機に、ロシアとイギリスの協議が進み、1907年に英露協商が成立し、アフガニスタンについてはイギリスの勢力圏と認めることで合意しました。

 

その後、第一次世界大戦後、インドの独立運動の激化など、イギリスのアジアにおける後退を受けて、イギリスとの間で1919年ラワルピンディー条約を締結して外交権を回復し、アフガニスタンは独立を回復しました。

インドについて

(プラッシーの戦い:wikiより)

1757年、ヨーロッパで七年戦争が行われていたころ、インドではイギリスとフランスの現地軍が戦闘を開始しました。この戦いをプラッシーの戦いといいました。

 

そして、イギリスのインド植民地化がすすみます。プラッシー戦いから100年後、1857年にシパーヒーの反乱が起きますが、鎮圧されイギリスのインド支配がすすみます。

 

そして、ついにムガル帝国が滅亡し、イギリスのビクトリア女王が統治するインド帝国が1877年に成立します。

 

そして、1905年、イギリスはベンガル地方をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の地域に分割するベンガル分割令を出します。

 

イギリスの狙いはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して統治する分割統治にありました。

 

そして、これに反発するためにティラクが中心となって1906年にカルカッタ大会が開かれました。

 

そして、第一次世界大戦後、インド独立のためにガンディ、ネルー(反イスラム)、ジンナー(反ヒンドゥ)が活躍します。

 

そして、第二次世界大戦後、1947年インドは独立します。

 

これらの流れについて「インドの独立運動(ベンガル分割令からジンナーとガンディー)【世界史B】受験に役立つインド史」を記載しています。

インドの独立運動(ベンガル分割令からジンナーとガンディー)【世界史B】受験に役立つインド史(第八回)
こんにちは。今回も世界史Bの受験に役立つインド史シリーズをはじめます。今回はインドの独立運動についてです。インド大反乱の鎮圧後、イギリスはインド帝国を樹立しインドに対する支配を強めました。 イギリスの利害を優先する植民地支配に対し、インド国...

東南アジア

東南アジアは基本的にヨーロッパの植民地になります。大まかな流れとして植民地支配の後、

 

ビルマは1886年英領インド帝国に併合されます。インド帝国成立の約10年後の出来事ですね。その後、アウンサンが独立運動をおこし1943年にビルマ国を建国します。そして、1948年、ビルマはイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立をとげます。

 

16世紀のポルトガルを初めとするヨーロッパ諸国の進出が始まると、スマトラ島には初めオランダが進出、ついでイギリスも進出します。最終的には、1824年のイギリス=オランダ協定でスマトラ島はオランダ、マレー半島はイギリスの植民地としました。

 

ベトナムでは、フランスと仏越戦争を起こし仏領インドシナとならいます。しかし、日露戦争の影響を受けファン・ボイ・チャウ東遊(トンズー)運動を起こし、民族独立運動がおこります。第二次大戦後、ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相として、ベトナム民主共和国を成立させます。

 

フィリピンは、スペインの植民地になっていました。ホセ・リサールが独立運動を指揮しましたが、結果植民地支配はからわず、支配国がスペインからアメリカに変わります。独立は第二次大戦後のことです。

 

タイはラーマ5世のチャクリー革命を通じて近代化に成功し、ヨーロッパの植民地になることなく独立を貫きます。

 

以上の話について「東南アジアの歴史(植民地時代から現代まで)」を見てみてください。

東南アジアの歴史(植民地時代から現代まで)【世界史B】
こんにちは。今回から東南アジアの歴史の二回目です。大航海時代以降、ヨーロッパ諸国が東南アジア各地に進出。植民地化していきました。欧米列強は植民地でプランテーション農業を行い、熱帯性の商品作物を生産します。植民地とされた東南アジア諸国は第二次...

まとめ

アジアについての近現代についてまとめましたが、いかがだったでしょうか?

 

基本的に、学校の教科書スタイルだと横軸で教えることが多いのですがなかなか縦軸で理解できず混乱をきたします。

 

HIMOKURIでは受験生のみなさんにとって理解しやすく勉強がすすむように作成しています。

 

また、今回の話について代ゼミ講師の佐藤幸夫先生が「大学入試 マンガで世界史が面白いほどわかる本」を出されているのでよければよんでみてください。

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