教皇権の絶頂及び衰退について解説(十字軍からシスマまで】【ヨーロッパ史中世編第七回】

ヨーロッパの歴史【中世編】

セルジューク朝の小アジア進入をきっかけに、第一回十字軍が派遣されました。

 

十字軍を指導する教皇の権威は高まり、インノケンティウス3世の時代に最高潮となります。しかし、十字軍の中にはイスラームに敵対することなく自身の利益を追求しキリスト教国に害をなす勢力も現れました。

 

そして、十字軍が失敗して教会の権威が失墜するとともに主権国家が現れたことで教皇の権威が失墜していきます。

 

今回は、十字軍の失敗により教皇の力が失墜していくまでを述べていきます。またこれにより主権国家が力を持っていきます。

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クレルモン宗教会議と第一回十字軍

(クレルモン公会議:wikiより)

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の援軍要請を受けた教皇ウルバヌス2世はクレルモンで宗教会議を開催しました。その場でローマ教皇ウルバヌス2世は「神がそれ(十字軍によるパレスチナ遠征)を望んでおられる(デウス・ウルト)」と述べ、ヨーロッパの諸侯たちに十字軍参加をよびかけました。

 

第一回十字軍には国王よりも大貴族である諸侯や騎士が多く参加します。彼らの目的は新領土の獲得でした。

 

1096年、大挙して押し寄せた十字軍はイェルサレムを占領します。

 

S先生
S先生
当時支配していたのはセルジューク朝ですね。

 

地中海沿岸にイェルサレム王国などの十字軍国家を建設しました。十字軍はその後、7度にわたって実行されます。

教皇権の絶頂期となったインノケンティウス3世の時代

(インノケンティウス3世:wikiより)

教皇の権威が最も高まったのはインノケンティウス3世の時代でした。教皇は皇帝や国王たちを破門にすることで、王権より教皇権が上であることを見せ付けます。

 

イギリスのジョン王、フランスのフィリップ2世もインノケンティウス3世に破門され、妥協を余儀なくされました。インノケンティウス3世は「教皇は太陽、皇帝は月」と述べ、教皇のほうが皇帝や世俗権力よりも偉いと主張します。

第四回十字軍

(ドラクロワ『十字軍のコンスタンティノープルへの入城』:wikiより)

引用:1202年、教皇インノケンティウス3世が呼びかけた第4回十字軍はパレスチナに向かわず、ビザンツ帝国首都のコンスタンィノープルを占領しますラテン帝国を建国します。

 

運搬役のヴェネツィアが自国の利益を達成するため、運賃と引き換えに十字軍をコンスタンティノープルへと向かわせたのです。

 

たなか君
たなか君
キリスト教国を助けるつもりが逆に攻めるとは、お金の怖さだね。。。

 

激怒したインノケンティウス3世は第四回十字軍とヴェネツィアを破門します。

教皇権の衰退期

(フィリップ4世:wikiより)

教皇は太陽、という時代は長く続きませんでした。度重なる十字軍によりヨーロッパが疲弊するとともに教皇に反抗する勢力の力が強くなってきました。

 

中央集権化を果たしたカペー朝フランスの王フィリップ4世が教皇に立ち向かいます。教皇とフランス王の争いはフランス王が勝利というかたちになります。

 

そして、権威が弱まったローマ教会は大分裂してしまいます。具体的な流れを見て行きましょう。

アナー二事件

 

(ドヌー「教皇ボニファティウス8世の捕縛」:wikiより)

1303年、フランス王フィリップ4世は、フランス国内の聖職者に課税する件で教皇ボニファティウス8世と対立します。フリップ4世はローマ郊外のアナーニに滞在していたボニファティウス8世を捕らえました。

 

教皇は数日後に解放されましたが、約1か月後に死去します。フランス王にとらえられたことがあまりに屈辱だったからだともいわれました。

 

S先生
S先生
ボニファティウス8世はアナーニ事件の後、怒り狂って「憤死」したといわれました。ただ、実際の死因はただの高齢と腎臓患いだそうです。

教皇のバビロン捕囚と教会大分裂

(アヴィニヨン教皇庁:wikiより)

ボニファティウス8世の死後、教皇となったクレメンス5世に対してフィリップ4世は教皇庁をローマからフランスのアヴィニョンに移すことを要求。

 

クレメンス5世はやむなく、教皇庁を移動させました。

 

1309年から1377年の間、ローマ教皇庁はアヴィニョンに置かれ、フランス人が教皇の座を占めます。これを教皇のバビロン捕囚といいます。

教会大分裂

1377年、久々にローマで次の教皇を決める枢機卿会議が開かれました。しかし、フランス派と反フランス派に分かれてしまい、次の教皇がなかなか決まりません。

 

このことに怒ったローマ市民が教皇庁に乱入します。そこで、フランス人枢機卿は逃げ出し、イタリア人のウルバヌス6世が教皇となりました。

 

しかし、一方、フランス派はアヴィニョンに戻り、クレメンス7世を選出します。

 

ローマ教会がローマとフランスにわかれる教会大分裂(シスマ)が起きました。この分裂は1417年まで続き、教皇の権威は急低下しました。

 

S先生
S先生
東西の教会が分裂した大シスマと区別してください。

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

ローマ教皇の権力が絶頂から衰退までの流れを追いました。とはいえ、ここらへん、入試の出題頻度が高い上に混乱しがちなので表にまとめてみました。しっかりと、この表を復習してください。

年号教皇と国王結果
カノッサの屈辱1077年グレゴリウス7世(ローマ教皇)V.S ハインリヒ4世(神聖ローマ)教皇の勝ち。
1122年 ヴォルムス協約で教皇の叙任権強化
アナーニ事件1303年ボニファティウス8世(ローマ教皇)V.S フィリップ4世(フランス王)皇帝の勝ち
教皇のバビロン捕囚1309〜1377年クレメンス5世(ローマ教皇)VSフィリップ4世(フランス王)皇帝の勝ち
教皇庁をフランスのアヴィニヨンに移す
教会大分裂(シスマ)1377〜1417年ウルバヌス6世(ローマ)VSクレメンス7世(フランス教皇)教会がローマとフランスに分裂

 

また、「これならわかる!ナビゲーター世界史B 3 近世の始まり~19世紀の徹底理解 」も解説が詳しいので通史をまとめて勉強する人にはおすすめです。

 

前回は「ローマ教会の成長(カール戴冠から叙任権闘争まで)」を述べました。

ローマ教会の成長(カール戴冠から叙任権闘争まで)【世界史B ヨーロッパ史(中世編第六回)】
こんにちは。「受験生に役立つヨーロッパの歴史」シリーズをはじめます。 今回は、ローマ教会がどのように力を持って成長していったのか解説していきます。 具体的にはローマ教会はどのように権力と結びついていったのか、ロー...

 

次回は「百年戦争とバラ戦争について(関連入試問題も解く)」です。お楽しみに。

百年戦争とバラ戦争について(関連入試問題も解く)【世界史B ヨーロッパ史(中世編 第八回)】
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