【世界史B】受験生に役立つヨーロッパの歴史(ローマ教会の歴史:絶頂衰退編)【中世編第七回】

ヨーロッパの歴史【中世編】
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みなさん、こんにちは。「受験に役立つヨーロッパの歴史」シリーズも中世編7回目に来ました。今回は前回に引き続きヨーロッパの歴史の中でローマ教会の歴史を追っていきます。

 

特に、今回のキーワードは「アナーニ事件」。ローマ教皇が絶頂期から転落する切っ掛けとなった事件です。アナーニ事件とは教皇が国王に捕らえられてしまう事件で、アナーニ事件の後に教皇のバビロン捕囚や教会大分裂があったりとローマ教皇の権力が衰退する契機となります。

 

今回は、ローマ教会が絶頂の権力を握った後、アナーニ事件を含めローマ教会の転換期を学習します。このローマ教会の歴史は今後の国際人としてヨーロッパ人と交流する上でローマ教会の歴史は必須ですし、何より大学受験で出やすいです。

 

2020年受験用 全国大学入試問題正解 15 世界史」によれば、関西学院大学の経済(2月2日、2月4日)や、同志社大学・グローバルコミュニケーション学部(2月8日)にローマ教会の歴史が出題されています。

 

この記事を読んでキーワードを押さえて流れを理解し暗記すれば入試で高得点間違いなしです。それでは、「受験生に役立つヨーロッパの歴史」第14回目【ローマ教会の歴史:絶頂衰退編】始まりです。

 

ちなみに前回までのローマ教会の歴史の流れが分からない人はこちらの記事をどうぞ。ローマ教会がどのように力を得てきたのか書かれています。

今回の記事のポイント

・インノケンティウス3世の時代にローマ教皇絶頂期を迎える

・アナーニ事件でフランス王の勝利(教皇権の衰退の兆し)

・14世紀に教会大分裂が起き教皇権が失墜

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十字軍と教皇権の絶頂期

(第一回十字軍エレサレムの戦い:wikiより)

イスラム王朝であるセルジューク朝の小アジア進入をきっかけに、第一回十字軍が派遣されました。十字軍を指導する教皇の権威は高まり、インノケンティウス3世の時代に最高潮となります。

 

独自の軍隊を教皇の呼びかけによって作ることができるほどに教皇の力は高まっていきます。まさに、ローマ教会が絶頂期を迎える形になります。

クレルモン宗教会議と第一回十字軍

(クレルモン宗教会議:wikiより)

事の発端は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がローマ教皇にセルジューク朝であるイスラム勢力の侵攻に対し救援を求めたことから始まります。

 

ビザンツ側は単なる援軍申請だったのですが、その援軍要請を受けた教皇ウルバヌス2世クレルモンで宗教会議を開催します。

 

その場で教皇は「神がそれ(十字軍によるパレスチナ遠征)を望んでおられる」と述べ、ヨーロッパの諸侯たちに独自の軍隊である十字軍参加をよびかけました。

 

以下、十字軍の地図です。地理関係は入試に出題されやすいので、しっかりと覚えておきましょう。せめて、「クレルモン」「エルサレム」の地理はしっかりと言えるようにしておきましょう。

世界の歴史マップより)

第一回十字軍には国王よりも大貴族である諸侯や騎士が多く参加します。彼らの目的は新領土の獲得でした。聖地奪還は名目で、新領土が欲しいというのが本音というところでしょう。

 

1099年、大挙して押し寄せた十字軍はイェルサレムを占領するのに成功します。地中海沿岸にイェルサレム王国などの十字軍国家を建設しました。

 

その後、イェルサレムがイスラム国家に奪われたり…まあごちゃごちゃになります。ちなみに十字軍はその後7度にわたって実行されました。

 

教皇権の絶頂期となったインノケンティウス3世の時代

(インノケンティウス3世:wikiより)

教皇の権威が最も高まったのはインノケンティウス3世の時代でした。教皇は皇帝や国王たちを破門にすることで、王権より教皇権が上であることを見せ付けます。

 

イギリスのジョン王(あだ名:失地王)、フランスのフィリップ2世もインノケンティウス3世に破門され、妥協を余儀なくされました。インノケンティウス3世は「教皇は太陽、皇帝は月」と述べ、教皇のほうが皇帝や世俗権力よりも偉いと主張します。

 

第四回十字軍

世界の歴史マップより)

1202年、教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍をよびかけます。しかし、十字軍はパレスチナに向かわず、ビザンツ帝国首都のコンスタンィノープルを占領し、ラテン帝国を建国します。

 

avatar

たかし君

異教徒どころか完全に仲間を攻撃してますね。ヤバイ!!

 

聖地奪還という名目を完全に失ってますね。むしろ、キリスト教側を攻撃してますから。理由は運搬役のヴェネツィアが自国の利益を達成するため、運賃と引き換えに十字軍をコンスタンティノープルへと向かわせたのです

 

結果、激怒したインノケンティウス3世は第四回十字軍とヴェネツィアを破門します。

教皇権の衰退期

(フィリップ4世::wikiより)

しかし、「教皇は太陽」という時代は長く続きません。中央集権化を果たしたカペー朝フランスの王、フィリップ4世が教皇に立ち向かいます。教皇とフランス王の争いはフランス王が勝利。権威が弱まったローマ教会は大分裂してしまいます。

 

アナー二事件

(アナーニ事件:wikiより)

1303年、カペー朝のフランス王フィリップ4世は、フランス国内の聖職者に課税する件で教皇ボニファティウス8世と対立します。

 

ちなみに、カペー朝は西フランクのカロリング家が断絶し、ユーグ=カペーが開いた王朝です。フリップ4世はローマ郊外のアナーニに滞在していたボニファティウス8世を捕らえます。

 

教皇は数日後に解放されましたが、約1か月後に死去します。フランス王にとらえられたことがあまりに屈辱だったからだともいわれました。いわゆる憤死と言われています。

 

同じ屈辱でもカノッサの屈辱とは教皇の権力が失墜という結果の点で異なっているので混同しないようにしましょう。あくまでも憤死したのはボニファテイウス8世のアナーニ事件です。

 

一応、両者の事件をしっかりと覚えるためにまとめました。よければ活用してください。

事件名年号・場所勝者敗者覚え方
カノッサの屈辱1077・カノッサレゴリウス7世(教皇)インリヒ4世(神聖ローマ皇帝)異例なな(1077)んとカノッサでハグ
アナーニ事件1303・ローマ郊外アナーニィリップ4世(フランス王)ニファティウス8世(教皇)いざおさん(1303)、父母アナーニへ

 

教皇のバビロン捕囚

(アヴィニヨン教皇庁:wikiより)

ボニファティウス8世の死後、教皇となったクレメンス5世に対してフィリップ4世は教皇庁をローマからフランスのアヴィニョンに移すことを要求します。クレメンス5世はやむなく、教皇庁をフランスのアヴィニヨンに移動させました。

 

1309年から1377年の間、ローマ教皇庁はアヴィニョンに置かれ、フランス人が教皇の座を占めます。ローマ教皇が完全にフランスの支配下に置かれることになり、これを教皇のバビロン捕囚といいます。

 

ちなみに、バビロン捕囚はヘブライ人がネブカドネザル2世によって捕らえられ、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって救出された話です。詳しくは「受験に役立つオリエント史(アジア) 第3回【アッシリア以前の東地中海世界:フェニキア人、ユダヤ人、アラム人】」に記載してあります。

フランス王フィリップ4世がやったことアナーニ事件(ボニファティウス8世をアナーニにて軟禁→教皇憤死。)

教皇のバビロン捕囚(教皇をフランスのアヴィニヨンに置く)

教会大分裂(大シスマ)

(教会大分裂大シスマ:wikiより)

1377年、ローマで次の教皇を決める枢機卿会議が開かれました。しかし、フランス派と反フランス派に分かれてしまい、次の教皇がなかなか決まりません。

 

このことに怒ったローマ市民が教皇庁に乱入します。フランス人枢機卿は逃げ出し、イタリア人のウルバヌス6世が教皇となりました。

 

フランス派はアヴィニョンに戻り、クレメンス7世を選出します。結果、ローマ教会がローマとフランスにわかれる教会大分裂が起きました。この分裂は1417年まで続き、教皇の権威は急低下しました。

 

今回のまとめ

以上、ヨーロッパの歴史のうちのローマ教会の歴史でした。流れとしては、教皇は十字軍をよびかけられるほど絶大な権力をもち、インノケンティウス3世の時に絶頂になります。その後、フィリップ4世の時代にアナーニ事件、教皇のバビロン捕囚、そしてシスマがあり権限失墜します。

 

話としてはあっという間ですが、入試にもそこそこ出るのでしっかりと理解をしておきましょう。お疲れ様でした。

 

次回からいよいよ近代に入ります。次回は「【世界史B】受験生に役立つヨーロッパの歴史(百年戦争とバラ戦争)【中世編第八回】」です。

さらにしっかりと勉強しておきましょう。

前回の記事「受験生に役立つヨーロッパの歴史その13(ローマ教会の歴史とは:成長編)【世界史B】」

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