【世界史B】受験生に役立つヨーロッパの歴史(ローマ教会の歴史:成長編)【中世編第六回】

ヨーロッパの歴史【中世編】

こんにちは。「受験生に役立つヨーロッパの歴史」シリーズをはじめます。第13回ですね。今回は、ローマ教会がどのように力を持って絶頂と衰退を辿ったのかを第13回、14回を通じて解説していきます。そして、今回は、絶頂に向かう前の成長期についてお話しします。

 

今回の【ローマ教会の歴史とは:成長編】では、ローマ教会はどのように権力と結びついていったのか、ローマ教会の歴史の変遷を辿って解説します。

 

ちなみに、このローマ教会の歴史は通史として大学入試で聞いてくることが多いです。例えば、2019年関西学院の2月2日と2月4日入試の問題でローマ=カトリック教会の通史の問題が出題されています。ミッション系の大学を受験する人にとっては出題されやすい箇所なのでしっかりと理解しておきましょう。

 

今回の記事のポイント・ローマ教会はカール大帝やオットー1世を皇帝と認め、東ローマから自立

・聖像禁止令をきっかけに、東方教会(正教)と西方教会(後のカトリック)に分裂

・叙任権闘争は教皇優位。カノッサの屈辱で皇帝が教皇に屈服

ローマ教会とカール大帝、オットー1世とのつながり

(アヴィニヨン教皇庁)

キリスト教は、様々な受難を乗り越えてローマの大帝国で国教にまで上り詰めました。ただし、テオドシウス帝以降、ローマ帝国は分裂しちゃいましてそれからどうする、というのがローマ教会の話でした。詳しい経緯についての記事はこちら

そして、ローマ帝国は東方の東ローマが中心に力を持っていき、西ローマは速攻で滅亡しちゃいますね。オドアケルという傭兵隊長が潰し、最終的には東ゴートに滅ぼされちゃうという話でしたね。あっという間でしたね。詳しい内容は、以下の記事に書いてます。

 

そして、東ローマ帝国という政治的な後ろ盾があるコンスタンティノープル教会に比べ、後ろ盾のないローマ教会の立場は不安定でした。バックについてくれる国がないのですから。そこで、ローマ教会はカール大帝やオットー1世を皇帝と認めることで、自分たちの後ろ盾を確保しようとします。

カール大帝の西ローマ皇帝の戴冠

(ジャン=フーケー『カールの戴冠』:wikiより)

800年、ローマ教会のトップである教皇レオ3世は、フランク王カールを西ローマ皇帝と認め、冠を与えました。

 

レオさんせい(3世)して晴れう(800)になったカールの戴冠。」

 

覚えてますか?

 

そうです、ローマ教会は、ローマ帝国とは全く関係ないゲルマン民族のフランク王国に目をつけたのですね。

 

ピピンの寄進に始まり、ローマ教会はフランク王国と繋がって国家の後ろ盾を得ようとしたのですね。このフランク王国について詳しく述べた記事はこちら

 

ただし、問題が生じます。覚えてますか?カールが死んでしまった後、フランク王国が分裂してしまいましたよね。ローマ帝国と同じ現象ですね。そこで、ローマ教会は次なる有力者を探す必要がありました。

オットー1世への加冠と神聖ローマ帝国の成立

(オットー1世:wikiより)

次に目をつけたのが、フランク王国の中で分裂した東フランク王国です。東方から侵入したマジャール人の討伐に成功した東フランク王のオットー1世に対し、962年、教皇ヨハネス12世は皇帝の称号を与えます

 

世界史で覚えておきたい年号の語呂合わせマジャールを撃退した苦労人962)の夫(オットー1世代で神聖ローマ皇帝になった

 

神聖ローマ帝国の成立について詳しい記事は以下にあります。オットーの帝国は「神聖ローマ帝国」とよばれました。こうして、ローマ教会は何とか権力基盤の後ろ盾を得ることに成功したのです。

 

東西教会の分裂

ちなみに、キリスト教の教会は当時は大きく2つに分裂していました。中世のはじめ、ローマを中心とする西方教会とコンスタンティノープルを中心とする東方教会に分かれていました。そして、東ローマ(ビザンツ帝国)と西ローマの後ろ盾を持ってそれぞれ活動するというイメージです。

 

そして、東側がまずは仕掛けます。726年、ビザンツ皇帝レオ3世は聖像禁止令を発布しました。東方教会ではビザンツ皇帝の指示が徹底されました。人間が神の姿を描くというのは神に対し不遜ということなのでしょう。もっと実質的なことをいうと、当時、ビザンツの首都コンスタンティノープルにイスラム勢力が流入していました。イスラムは聖像禁止なので、その影響を抑えるために聖像禁止をしたと言われています。

 

ちなみに、聖像禁止令を出したのはビザンツ帝国の皇帝のレオ3世です。カール皇帝に戴冠したローマ教皇もレオ3世ですが別人なので混同しないようにしてください。

 

ローマ教会はゲルマン人への布教に聖像を使っていたので聖像禁止令に猛反発します。ローマ教会たるアタナシウス派としてはゲルマン人はみんなアリウス派だったのでなんとかイメージを持たせる為に偶像が必要だったのですね。西方教会と東方教会の溝が広がります。

 

1054年、西方教会と東方教会は互いを破門します。結果、キリスト教会はローマ教会とコンスタンティノープル教会に分裂します。

皇帝と教皇の聖職叙任権闘争

叙任権とは、大司教などの高位聖職者を任命する権利のことを言います。大司教は、周辺の土地を支配していたので、大司教の位にはセットで土地が付いてきます。これを狙って、教皇と皇帝が、互いに叙任権は自分にあると主張して争いました。

 

神聖ローマ帝国では建国以来、ドイツでの聖職叙任権は皇帝がもっていました。しかし、ローマ教会で教皇の力が増してくると、ドイツ国内の聖職者も教皇が任命すべきだとする考えが強まります。

 

何事も人事権というのは権力としては絶大なものなので、誰に従うかの決定に大事になります。そこで、教皇皇帝どちらが握るかというのはどちらが権力でマウントを取れるかという話になってくるので争いのタネになります。

 

そして、皇帝も教皇も聖職叙任権についてまったく譲らなかったことから、しばしば争いの種となりました。しかも、神聖ローマ皇帝が行うイタリア政策を快く思わなかった教皇は、皇帝に対し強い態度で臨みます。

 

カノッサの屈辱

(カノッサの屈辱:wikiより)

1077年、クリュニー修道院出身のグレゴリウス7世がローマ教皇となると、今まで以上に教皇が聖職叙任権を持つべきだと主張しました。

 

そのため、グレゴリウス7世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と激しく対立します。ついには、ハインリヒ4世を破門にしてしまいました。

 

破門されてしまえば、皇帝と言えども部下に言うことを聞かせることが出来なくなります。なぜなら、破門とはキリスト教世界からの追放を意味し、当時の人は皆キリスト教だったからです。破門された人間の言うことを聞いたら天国に行けなくなっちゃいますからね。

 

そこで、困ったハインリヒ4世は破門を解いてもらおうと、イタリアのカノッサ城に滞在していたグレゴリウス7世の元にゆき、雪の中3日間、教皇の許しを請いました。皇帝が教皇に屈服したこの事件をカノッサの屈辱といいます。

 

雪の中で裸足で断食しながら祈りを捧げたそうですが、もうこれ皇帝は教皇の完全に下ということですよね。どんな謝罪レベル!?と驚くしかありませんね。ちなみに、今でもヨーロッパでは「カノッサの屈辱」という言葉には「強制されて屈服し謝罪する」という意味があるそうです。

 

そして、1122年、対立を続けていた神聖ローマ皇帝とローマ教皇ヴィルムス協約結びました。この協約で皇帝はドイツ以外での聖職叙任権を放棄。叙任権闘争が決着しました。

 

以上、ローマ教会の成長編でした。これ以降、ローマ教会は皇帝の上についたことから絶頂期に入ります。そして最後衰退を辿ります。第14回をお楽しみに♪

 

次の記事はこちら

前回までのお話はこちら

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