【世界史B】モンゴル帝国と元(受験に役立つ中国史)

中国の歴史【近代】唐、五代十国、宋、元まで

こんにちは。今回は中国史のなかでモンゴル帝国と元について述べます。中国が金と南宋に分かれていたころ、モンゴル高原でチンギス=ハン(チンギス・ハーン)が急速に勢力を拡大。モンゴルを統一します。

 

圧倒的な武力を誇るモンゴル帝国は次々と周辺諸国を制圧し支配下に収めました。モンゴル帝国の皇帝にして、中国の支配者となったフビライ=ハンは元王朝の成立を宣言します。

 

しかし、広大すぎるモンゴル帝国は次第に分離独立の傾向を強め、最終的に元と4ハン国が並立する状態になりました。今回はモンゴル帝国の成立や元の支配についてまとめます。

 

今回の覚えておくポイント・チンギスはナイマン、ホラズム、西夏を征服

・オゴタイは金を征服し、バトゥの西征軍をヨーロッパに派遣

・モンケはフラグをイスラーム世界に派遣しアッバース朝を滅ぼさせた

・フビライは大ハンに即位後、本拠地を中国に移し南宋を滅ぼした

・フビライは日本やパガン朝、陳朝大越国などに遠征した

・元は農民反乱である紅巾の乱によって滅ぼされた

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モンゴル帝国の発展

(チンギス・ハーン:wikiより)

1162年、モンゴル族の族長の息子としてテムジンが生まれました。モンゴル族はモンゴル北東部を支配する有力部族でしたが、テムジンが9歳の時、父が敵対部族に暗殺されたため一気に弱体化します。

 

成長したテムジンはモンゴル族をまとめ上げ諸部族との戦いに勝利。ついにはモンゴル高原の武力統一に成功します。このとき、モンゴル高原の諸部族長が集まる会議(クリルタイ)でテムジンは大ハン(大ハーン)に推戴され、チンギス=ハと呼ばれるようになりました。

 

チンギスは西遼(カラ=キタイ)を滅ぼしていたナイマンを征服します。西遼は耶律大石が作った国でしたね。詳しくは、「宋と北方民族」を読んでください。また、チンギス・ハーンの史跡についてKOEIから「蒼き狼と白き牝鹿・元朝秘史」というゲームがでているので(OSはwindows)それで理解をしていくのもいいかもしれません。

 

1220年にはイラン高原に力を持っていたホラズムを攻め滅ぼしました。亡くなる直前、服従の約束に背いた中国北西部の西夏を攻め滅ぼします。ちなみに、下の地図はチンギス=ハンの征服した地域の地図です。

(チンギスの制服地図:wikiより)

チンギスの死後、大ハンになったのは三男のオゴタイでした。オゴタイはモンゴル高原に政治の中心としてカラコルムを建設します。オゴタイはチンギスの代からの宿敵である中国北部のを攻め滅ぼしました。

 

S先生
S先生

これで宋の時代に活躍した北方民族はすべてモンゴルに征服されることになりますね。

また、オゴタイは兄の子であるバトゥに兵を預け西方世界の征服に向かわせます。バトゥ率いる西征軍はロシアにあったキエフ公国を征服します。さらに西に進んでドイツ=ポーランド連合軍をワールシュタットの戦いで撃破しました。

(ワールシュタットの戦い:wikiより)

さらに西に進もうとしたところ、オゴタイの急死の知らせが入ります。そのため、バトゥは兵を引き上げました。

 

第四代ハンのモンケはオゴタイの弟の子です。モンケはチンギスやオゴタイの征服路線を継続します。弟の一人フビライを中国南東部にあった大理に遠征させます。さらに、もう一人の弟であるフラグにはイスラーム世界を征服させました。少し、読んでいてややこしくなったと思うので、モンゴル帝国の家系図を用意しました。

 

フラグが建てたイル=ハン国については以前、受験に役立つオリエントの歴史シリーズ「イスラーム諸王朝」についても記載しているので、ぜひそちらをお読みください。

元と4ハン国の成立

(フビライ=ハン:wikiより)

1260年、モンケ=ハンが急死するとモンケの弟であるフビライとアリクブケが第5代ハンの位をめぐって争いました。1264年、フビライがアリクブケに勝利し、大ハンの地位を確かなものとします。

 

フビライは帝国の都をカラコルムから(現在の北京)に移しました。のちに、中都は大都と改称されます。フビライの即位に納得できなかったオゴタイの孫であるハイドゥはたびたびフビライに戦いを挑みますが、最終的にハイドゥの敗北で戦いは終わります。

 

1271年、本拠地を中国に移していたフビライ元王朝の成立を宣言します。1279に南宋を攻め滅ぼし中国を統一します。元ではそれまでの王朝と異なり、実力主義で中国人以外の異民族も積極的に登用しました。

 

支配者層のモンゴル人に加え、財政能力に優れた色目人や中国北部の金の領土だった地域に住む人々も登用されます。人口の80%以上を占める旧南宋地域の人々は南人とよばれ他の民族に比べると冷遇されました。

 

フビライの時代、モンゴル帝国は中国の元とロシアのキプチャク=ハン国、中央アジアのチャガタイ=ハン国、草原地帯のオゴタイ=ハン国、イラン・イラク方面のイル=ハン国などに分裂します。ちなみにオゴタイ=ハン国は国としては実質機能していなかったです。

 

王朝名建国者場所
フラグイル=ハン国西アジア
バトゥキプチャク=ハン国ロシア
チャガタイチャガタイ=ハン国中央アジア

元の征服戦争と諸国の抵抗

(蒙古襲来絵詞:wikiより)

モンゴル帝国や元による征服戦争は中国から東アジア、東南アジア全域に拡大します。1259年、高麗はモンゴル帝国に降伏します。反乱を起こした三別抄も鎮圧されました。

 

日本に対しても1274年1281年に攻め込んできました。日本は鎌倉幕府を中心に元の侵攻を退けます。これを、元寇といいますね。

 

1287年、元軍は現在のミャンマーにあったパガン朝を攻撃。パガン朝は壊滅状態となります。しかし、陳朝大越国(ベトナム)に対して行った遠征は失敗に終わりました。

 

1292年、ジャワ島のシンガサリ朝に対しても元は兵を派遣しましたが現地の内紛に巻き込まれて侵攻は失敗に終わります。以後、元軍の征服活動は停滞するようになりました。

元の滅亡

(紅巾の乱:毎日頭条より)

1294年にフビライが死去すると、元の支配に陰りがみられるようになりました。元が滅亡した要因は複数あると考えられます。

 

  • 科挙を廃止するなど中国の伝統文化を軽視しすぎたこと。
  • 黄河の氾濫に有効な手を打てず、大量の流民を発生させたこと。
  • チベット仏教に多額の出費をしたこと。
  • 宮廷の出費が多額に及んだこと。
  • 帝位をめぐる争いが頻発したこと

 

などがあげられます。すべての理由を覚える必要はありませんが、おおよそ理解をしておきましょう。

 

特に、流民の大量発生や支出増大による財政難は致命的でした。元が収入を増やすため塩税を増税したことが民衆の怒りに火をつけます。

 

1351年、白蓮教徒が中心となって元に対して反乱を起こしました。反乱は瞬く間に拡大し中国全土に広がります。反乱軍が紅巾をかぶっていたことから紅巾の乱とよばれました。(後漢末の黄巾の乱と区別しましょう)

 

紅巾の乱の混乱を制し、勢力を拡大したのが朱元璋でした。朱元璋は1368年に南京で皇帝即位を宣言し、王朝を開きます。明軍は元の都である大都を攻略します。元の最期の皇帝である順帝は北方のモンゴル高原に去りました。

 

モンゴル高原に去った後の元を北元とよびます。朱元璋は中国各地に割拠していた勢力を制圧し中国全土を統一しました。

まとめ

チンギス=ハンは圧倒的な軍事力で周辺諸国を征服しました。チンギスの子孫たちも征服活動を継続。その結果、ユーラシア大陸を東西にまたぐモンゴル帝国が誕生します。第5代ハンのフビライは中国に拠点を移し、元の初代皇帝となります。

 

元は漢民族以外を積極的に登用しますが、そのことが仇となり漢民族の反発を招きます。繰り返される遠征や浪費などによる財政難を解消するため、元が塩税の増税に踏み切ったことで紅巾の乱が発生。元は滅亡してしまいます。

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