受験頻出!平安時代初期の政治について解説!桓武天皇から嵯峨天皇まで【日本史第15回】

原始・古代

平安時代とは桓武天皇は平安京に都を移した794年から鎌倉幕府が開かれる1192年(または、1185年)までの400年間をさします。

 

平安京に都を移した桓武天皇やその次の嵯峨天皇は律令政治の立て直しを目指し政治改革を行いました。今回は、桓武天皇・嵯峨天皇といった平安時代初期の天皇が行った政策をまとめ、年表付で紹介します。

  • 桓武天皇や嵯峨天皇は令外官を設置し律令制度の立て直しを目指した
  • 代表的な令外官は征夷大将軍、勘解由使、蔵人頭、検非違使
  • 坂上田村麻呂は阿弖流為に勝利し、東北地方の太平洋側に進出
  • 蔵人頭が設置されたきっかけは薬子の変(平城太上天皇の変)
  • 嵯峨天皇時代に作られたのは弘仁格式

 

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平安時代の政治とは

(桓武天皇:wikiより)

平安時代の政治は大きく分けると次の4期に区分できます。

 

  • 794年~842年:桓武天皇・嵯峨天皇の政治
  • 842年~969年:藤原北家による他氏排斥の時代
  • 969年~1067年:摂関政治
  • 1067年~1192年:院政(後三条天皇の親政期間を含む)
  • 桓武天皇や嵯峨天皇の時代は、律令に不足していた役職を追加する令外官をはじめとする新制度が作られた時代でした。

 

嵯峨天皇の時代に力をつけたのが薬子の乱平定で活躍した藤原冬嗣の子孫たちです。冬嗣の家は藤原北家とよばれました。藤原北家は他の有力氏族を次々と排斥し、政治を独占します。

 

969年の安和の変以後、藤原北家に対抗できる氏族はいなくなりました。藤原北家は娘を天皇家に送り込み、天皇の母方の父(外戚)として天皇を後見します。

 

こうして、藤原北家の出身者が摂政や関白に就任し、天皇のかわりに政治を行う摂関政治の仕組みが出来上がりました。

 

1067年に即位した後三条天皇は摂関家(藤原北家)を外戚としなかったため、摂関家に遠慮せず、延久の荘園整理令を実行しました。摂関家は大きな経済的ダメージを受けます。

 

後三条天皇の後に即位した白河天皇は幼い息子(堀河天皇)に早々に譲位し、自らは上皇として天皇を後見します。上皇は院とよばれ、天皇や朝廷に院宣を下して政治を動かしました。これを院政といいます。

桓武天皇の時代

770年に称徳天皇が死去すると、かわって天智天皇の孫である光仁天皇が即位しました。

 

781年、光仁天皇がなくなると、桓武天皇が即位します。桓武天皇は律令制度の立て直しを行いました。

平安京への遷都

即位した桓武天皇は、平城京から別の場所に遷都しようと考えました。

 

遷都の理由は二つあります。一つは、寺院勢力が強い平城京から離れることです。もう一つは、山背国(今の京都府)が水陸の交通の便が良かったからです。

 

784年、桓武天皇は山背国長岡京への遷都を決定します。

 

遷都の責任者に任命されたのが藤原種継でした。ところが、785年に何者かによって藤原種継が暗殺されてしまいます。その後も長岡京の工事がはかどらなかったため、桓武天皇は長岡遷都を取りやめました。

 

794年、桓武天皇は長岡京の北に新たな都の建設を決意します。これが平安京です。以後、鎌倉幕府が成立するまでおよそ400年間、平安京は日本の政治の中心であり続けました。ちなみに、明治期に都が東京になるまでの間、天皇が住まわれたため都は平安京であったということも覚えておきましょう。

(平安京地図)

令外官の設置

奈良時代は律令に基づいた政治が行われた時代でした。律令が成立してから50年以上たった平安時代初期になると、時代の変化に合わせた新しい官職が必要になりました。令の規定にない新しい官職を令外官といいます。

 

桓武天皇と嵯峨天皇が設置した令外官は入試頻出です。桓武天皇がつくった令外官は征夷大将軍と勘解由使です。嵯峨天皇が設置した検非違使と蔵人頭は後程説明します。

 

征夷大将軍は文字通り、蝦夷(東北地方に住む朝廷に従わない人々)を討伐するための将軍職です。もっとも有名なのは坂上田村麻呂ですね。坂上田村麻呂は蝦夷の首長阿弖流為と戦って東北地方の太平洋側を平定し、多賀城から北に胆沢城や志波城を築きました。

 

勘解由使は国司交代の際に交付される引き継ぎ書類(解由状)をチェックするための役職です。設置の目的は国司交代時に発生していた不正や紛争をなくすためでした。

健児の制

7世紀中ごろ、日本は百済復興を支援するため唐・新羅連合軍と白村江で戦い大敗しました。朝廷は唐・新羅軍が日本に攻め込んできたときに備え、各地に軍団を整備します。

 

国際関係が安定化すると、大規模な軍団は不要となりました。桓武天皇は諸国の不要な軍団を廃止し、かわって郡司の子弟などを採用する健児の制を実施しました。目的は兵士の質の向上と軍の規模縮小による経費節減です。

嵯峨天皇即位

桓武天皇が死去すると、平城天皇が即位します。

しかし、平城天皇は病気のためわずか3年で退位して上皇となりました。かわって弟の嵯峨天皇が即位します。

 

平城上皇の側近である藤原仲成と藤原薬子は病気が快復した平城上皇を押し立てて権力を取り戻そうとしました。

 

嵯峨天皇は側近の藤原冬嗣を新設した令外官である蔵人頭に任命し機密事項を扱わせました。嵯峨天皇は藤原冬嗣とともに、平城上皇や藤原仲成、藤原薬子への対抗策を練ります。

 

810年、平城上皇と側近が東国に向かい挙兵しようとしていることを知った嵯峨天皇は直ちに坂上田村麻呂を差し向け、平城上皇の移動を阻止しようとしました。この時、藤原仲成は射殺され、藤原薬子は自害しました。これを、平城太上天皇の変、または薬子の変といいます。

 

816年、嵯峨天皇は令外官として検非違使を設置します。検非違使の任務は京内の治安維持、犯人検挙、裁判・訴訟の取り扱いでした。

 

また、政権を完全に掌握した嵯峨天皇は藤原冬嗣に律令を補完する格式の整備を命じ、弘仁格式を作らせました。格は律令の補足や修正のことで、式は律令・格の施行細則です。

 

その後、清和天皇の時代に貞観格式、醍醐天皇の時代に延喜格式がつくられ、弘仁格式・貞観格式・延喜格式は三代格式と呼ばれるようになります。

平安時代初期の政治についてまとめ

桓武天皇は都を長岡京・平安京へと移し、律令制度の立て直しを図りました。桓武天皇が設置した令外官は征夷大将軍と勘解由使です。

 

平城天皇が短期間で退位すると弟が嵯峨天皇として即位しました。平城上皇と側近が権力奪還を企てると嵯峨天皇は藤原冬嗣を蔵人頭に任じ、この動きを封じます。

 

嵯峨天皇は蔵人頭以外にも、令外官として検非違使を新設します。また、弘仁格式を編纂させ律令の不足を補いました。

 

今回の話をまとめました。是非とも参考にしてください。

天皇年代出来事
桓武784長岡京に遷都
785藤原種継暗殺
794平安京に遷都
797勘解由使の設置
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷征討を開始
802蝦夷の酋長、阿弖流為が降伏
平城806平城天皇即位
嵯峨810薬子の変
816検非違使の設置
822弘仁格式の完成

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