【世界史B】ヌルハチから康煕帝、雍正帝、乾隆帝までの清代皇帝について知るべき4つの点【受験に役立つ中国史】

中国の歴史【近代】唐、五代十国、宋、元まで

こんにちは。今回はヌルハチ、ホンタイジ、順治帝、康煕帝、雍正帝、乾隆帝といった清代の皇帝について受験で知っておくべきポイントをまとめました。

 

簡単にいうと、そもそも中国東北部にある満州に住んでいた女真族はヌルハチの下で勢力を拡大し、後金を建国します。2代目のホンタイジは国号を清と変更し、満州とモンゴルの支配を固めます。1644年、李自成の反乱軍が北京を占領し明が滅亡しました。この混乱に乗じて清は万里の長城を越え中国進出します。

 

中国進出後、4代康熙帝、5代雍正帝、6代乾隆帝と3人の賢帝が続いた清は最盛期を迎えました。

 

今回の覚えるの4つのポイント・17世紀初め、ヌルハチが後金を建国し、2代目のホンタイジが国号を清と改称し、3代目の順治帝の時に中国本土を制圧した。

・康熙帝は三藩の乱を平定し清の支配するとともにキリスト教の典礼をしないものを入国禁止とした。

・雍正帝は軍機処を設置し、キリスト教を完全に禁止した。

・乾隆帝の時代に領土最大となるも、イギリスのマカートニーらの来訪にもかかわらず対外的には閉鎖政策をとった。

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後金の成立と清の中国支配

(瀋陽故宮:wikiより)

17世紀前半、現在の中国東北地方にあたる満州女真族を統一したのがヌルハチでした。1616年に後金を建国したヌルハチは八旗とよばれる軍事組織を整備し、サルフの戦いで明の大軍を撃破。瀋陽を都として中国東北地方の支配を固めます。

 

1623年に即位したホンタイジは内モンゴルのチャハル部を平定。翌年に国号を清と改めました。1637年には朝鮮を服属させ、背後から攻められないようにします。

このころ、では李自成の乱がおきていました。しかし、万里の長城の守りが固く、ホンタイジは中国本土に攻め込むことはできません。ホンタイジの時代、服属した諸地域を支配するため理藩院が置かれます。清独特の役所なので注意が必要ですね。明の詳しい話は前回の「洪武帝と永楽帝の明について受験で覚えておきたい4つのポイント」に詳しく書いています。

 

1643年、ホンタイジが亡くなると順治帝が跡を継ぎました。順治帝と摂政のドルゴンは明の混乱状態に付け込むすきを慎重に待ちます。

 

1644年、李自成の反乱軍はついに北京を陥落させます。李自成は皇帝を名乗り新しい国を作ろうとしました。しかし一方、清と明の国境にあたる万里の長城の山海関では、明の守将呉三桂は清に降伏します。山海関を開け放って清軍とともに北京を目指しました。

 

李自成は清と呉三桂の軍団に敗北します。かわって、順治帝が北京に入城しました。順治帝は敵と味方を判別させるため、北方民族の風習である辮髪を全国民に強要し、従わないものを処刑しました。

 

こうした、清(後金)の背景には、「八旗」と呼ばれる軍事システムがあり絶大な軍事力がありました。そこで、満州の女真族が「八旗」というシステムとともにどのように「清」という帝国を作っていったのか詳しい研究書として「大清帝国の形成と八旗制 」という本がおすすめです。清についてより深く史実の史料に基づき知りたい方はおすすめです。

康熙帝の治世

(康熙帝:wikiより)

1661年、康熙帝が即位した時、鄭成功がオランダ人勢力を台湾から駆逐。反清復明運動の中心とします。

 

その12年後の1673年、康熙帝は呉三桂ら3人の藩王国を取り潰そうとしたため、呉三桂らは清に反旗を翻しました。これが三藩の乱です。康熙帝は8年がかりで反乱を鎮圧します。1683年には台湾の鄭一族も降伏。これにより清の中国支配を確たるものとします。

 

その一方、東方に領土を拡大していたロシア帝国とはネルチンスク条約を締結。アルグン川と外興安嶺山脈を両国の国境としました。

康熙帝は財政面でも改革を実行。無駄な出費を減らします。その結果、康熙帝の治世には何度も減税を実施。人頭税である丁税を事実上廃止する盛世滋生人丁を実施します。具体的には、1711年を記念してこの年以降に生まれた人には人頭税を課税しないという減税策です。その後、雍正帝時代に地租と一本化され地丁銀制度となりました。

 

清の時代、カトリック、特にイエズス会の宣教師が清に入り布教を行いました。その際、イエズス会は中国の祖先崇拝の習慣や習俗などを認めつつキリスト教を布教します。この中国の習慣・風俗を典礼といいました。

 

フランチェスコ会やドミニコ会など後発の修道会はイエズス会のやり方を批判し教皇に訴えます。教皇も典礼を否定しました

 

S先生
S先生

キリスト教は神の下に平等なので、祖先もへったくれもない、という価値観ですね。

このことに康熙帝が反発します。典礼を認めない宣教師の入国を禁止しました。これが典礼問題です。この典礼問題に詳しく扱ったのが「中国とキリスト教―典礼問題 」という書籍です。これも研究書ですが、平易な文でかかれておりおすすめの書籍です。

雍正帝の治世

(雍正帝:wikiより)

1722年、康熙帝が亡くなり雍正帝が即位しました。雍正帝は朝の4時から夜の12時まで政務に励む実務型の皇帝です。

 

1724年、雍正帝は全面的なキリスト教の布教禁止を決定します。宣教師をマカオに追放する処分をくだします。

 

1727年、雍正帝はロシアとキャフタ条約を締結。モンゴル方面での国境を画定しました。ネルチンスク条約とあわせて、ロシアとの国境線がおおむね定まったといってよいでしょう。

雍正帝時代に設置された重要な役所は軍機処です。雍正帝がジュンガル討伐のために置いた臨時の本営が軍機処の始まりです。軍機処のトップである軍機大臣は行政面での皇帝の補佐役である内閣大学士を上回る力を持つようになります。

 

清の時代、反清朝・反満州人の内容を記載した書物は厳しい取り締まりの対象となりました。これを文字の獄といいます。文字の獄は康熙帝に始まりますが、厳しくなったのは雍正帝の時代でした。文字の獄は乾隆帝以後の皇帝たちにも受け継がれます。

乾隆帝の治世

(乾隆帝:wikiより)

1735年、乾隆帝が即位しました。乾隆帝の時代は清朝の最盛期とされます。1758年にはたびたび戦いを繰り広げたジュンガルを平定します。この地域を新疆と名付け支配します。

1757年、乾隆帝は貿易をヨーロッパとの貿易を広州1港に限定します。これに対し、イギリスは1793年にマカートニーを派遣して通商拡大を求めますが、乾隆帝は拒否します。マカートニーの中国訪問については「中国訪問使節日記 」が東洋文庫から出ています。当時の中国の様子がかなり細かく分かり面白いです。一部紹介します。

 

貧民の間では子供を捨てることが普通に行なわれている、と中国の歴史を書いたほとんどすべての書物に出てくるが、彼はそれを事実であると認めた。警察は毎朝早く荷車を一台出して町をまわらせる。荷車は捨て子を拾いあげて、彼らを埋葬するための穴、すなわち墓地へ運ぶ。宣教師たちはしばしばその場に立ち会って、健康そうで元気を回復しそうな子供を二、三人引き取って保護する。残りは、生きていようが死んでいようがおかまいなく、穴の中へ投げこまれる。(省略)中国人は久しく前からわれわれのヴァイオリンを取り入れている。もっとも、まだ普及しているわけではない。また、このごろでは彼らの音楽を罫紙に記すことを習い覚えている。このことから察せられるのは、彼らは虚栄心や自惚れが強いが、教えを受けることを満更拒もうとしない事柄が多少はあるということである。 (『中国訪問使節日記』より)

 

乾隆帝の時代は文化も非常に発達しました。祖父の康熙帝が行わせた「康煕字典」の編纂事業や康熙帝・雍正帝が行った「古今図書集成」の事業に続き、重要書籍を網羅的に集めた「四書全書」を編纂させます。

まとめ

ヌルハチが中国東北地方で後金を建国後、国力は次第に増大。2代目のホンタイジは国号を清と改め、さらに力を強めました。3代順治帝の時、李自成の乱の混乱に乗じて山海関の守将呉三桂を降伏させ、中国全土を制圧しました。

 

三藩の乱を鎮圧した4代康熙帝、軍機処を設置した5代雍正帝、ジュンガルを平定し最大領土を獲得し制限貿易を実施した6代乾隆帝の3人の皇帝たちの時代が清朝の最盛期となりました。

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