【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(フランク王国の成立)【中世編第三回】

こんにちは。今回も受験生に役立つシリーズをはじめます。シリーズ第10回はフランク王国を中心とする西ヨーロッパの歴史について話します。クローヴィスからピピン、カール大帝までの歴史を振り返ります。似た名前も多いので、注意して確認しましょう。

 

今回の記事のポイント・クローヴィスのカトリック改宗でフランク王国とローマ教皇が結びついた

・ピピンの寄進により教皇領が成立した

・カール大帝の時代、フランク王国は最盛期

 

メロヴィング朝フランク王国

ゲルマン民族の大移動の話を覚えているでしょうか?そのゲルマン民族の一派にフランク族というのがいました。今回はそのフランク族のお話です。ゲルマン民族大移動のお話はこちら

 

 

さて、それではお話を始めましょう。物語は、フランク族のメロヴィング家のクローヴィスという男から始まります。

クローヴィスの改宗

(クローヴィス:wikiより)

メロヴィング家にクローヴィスという人がいました。彼は、フランク族を統一し北西ガリアから南がリアまで領土を拡大しました。そこで、フランク人の王国としてフランク王国メロヴィング朝を建国しました。

 

フランク族を統一したクローヴィスは周辺諸部族を討伐し、フランク王国の領土を広げます。そして、南フランスにあたるガリアを攻めたとき、クローヴィスはアタナシウス派キリスト教に改宗しました。

 

アタナシウス派キリスト教はニケーア公会議で正統なものと認定されたのでしたね。実は、ゲルマン民族の多くが異端とされたアリウス派を指示していて、そこから改修というのはキリスト教世界で大きな意味をもつものでした。キリスト教の歴史についてはこちら

 

クローヴィスの改修の理由は、旧ローマ帝国領内で広く信仰されていたアタナシウス派に改宗することで南フランスの征服を容易にしようと考えたからです。支配者が宗教を利用するというのはよくあることです。

 

一方、アタナシウス派の本山のひとつ、ローマ教会はクローヴィスの改宗を歓迎します。ローマ教会からすればクローヴィスが後ろ盾になってくれることは心強いことだったからです。

 

トゥール=ポワティエ間の戦い

(クローヴィス:wikiより)

7世紀から8世紀はイスラームが強い時代でした。特に、ウマイヤ朝は急激に領土を拡大。北アフリカやイベリア半島を征服し、フランク王国に迫ります。

 

そこで、フランク王国で王に次ぐ地位である宮宰の地位にあったカール=マルテルは、イスラーム軍を732年トゥール=ポワティエ間で迎え撃ち、ウマイヤ朝のイスラーム軍司令官を討ち取りました。まさに、トゥール=ポワティエにより勢いはなみに(732)乗っている形ですね。

 

覚えておきたい年号の語呂合わせ

トゥール=ポワティエの勝利で波に(732)乗る勢いのフランク王国

 

戦いの勝利でカール=マルテルの人気はうなぎのぼり。頼りにならないメロヴィング家の王たちより、よほど頼りにされました。

 

ちなみに、カール=マルテルはカロリング家だったのですが、あくまで宮宰という身分でしたのでメロヴィング朝に支えていたと理解してください。ごっちゃになりがちですが気をつけてください。

 

カロリング朝フランク王国とカール大帝

カール=マルテルの死後、子のピピンはメロヴィング朝を廃して自分が王になり、カロリング朝をはじめました。ピピンは教皇にランゴバルド王国から奪ったラヴェンナ地方を寄進。ローマ教皇領が成立します。

 

フランク王国の最盛期を築いたのがピピンの子のカール大帝でした。カール=マルテル→ピピン→カール大帝という順番です。この中でカール=マルテルだけメロヴィング朝に支えていました。それでは、詳しくみていきましょう!!

 

ピピンが王になりカロリング朝が成立した

(ピピンの肖像:wikiより)

フランク王国でカロリング家のカール=マルテルが死んだ後、その息子ピピンが後をつぎます。そして、ピピンは、ローマ教皇に「実力があるものが王になってもよいか」と尋ね、ローマ教皇はこれを認めました。そこで、751年にメロヴィング朝の王を排除してカロリング朝を開きました。

 

ピピンは、イタリアで勢力を拡大しローマ教会を圧迫していたランゴバルド王国を攻撃します。征服した土地ラヴェンナを教皇に寄進しました。ピピンの寄進によりローマ教皇領が生まれます。上の地図でラヴェンナの場所は確認しておきましょう。

 

カール大帝の時代

(カールの戴冠:wikiより)

ピピンの後を継いだのはピピンの子供、ャルルマーニュでした。これはフランス語ですが、英語のカールの方が馴染みやすいかもしれません。カール大帝で覚えていきましょう。

 

カール大帝は、ピピンにも増して周辺諸国を征服します。まず、弱っていたランゴバルド王国を完全に併合。イベリア半島のイスラーム勢力やドイツのザクセン人なども攻撃します。さらには、ハンガリー付近にいたアジア系のアヴァール人も攻撃します。

 

カール大帝は広がった領土を治めるため、「伯」を派遣します。また、伯が勝手なことをしないように巡察使を派遣してチェックさせました。

 

800年ローマ教皇レオ3世はカールに西ローマ皇帝に帝冠を授けます。これにより、カールは西ヨーロッパ世界の支配者であると広く認められました。フランク王国の最盛期ですね。この年号は覚えておく必要があります。

 

覚えておきたい年号の語呂合わせレオさんせい(3世)して晴れう(800)になったカールの戴冠。

 

また、カール大帝の時代、首都がおかれたアーヘンを中心に文化が盛んになります。これをカロリング=ルネサンスといいますよ。

 

次回は、このフランク王国が分裂していく話をしていきます。

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次回の話はこちら

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