覚えておくべき戦国武将まとめ(入試問題演習付き)【日本史第43回】

戦国武将とは、日本の戦国時代において足軽たちを統率する戦国大名やその家臣のことをいいます。

 

今回は各地の戦国武将について見ていきます。戦国武将の分野は出題される機会は多くありません。

 

ただその中でも入試に役立つ部分をピックアップしているので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね。教養として身につけておくと役に立つかもしれませんよ。

 

この記事からわかること・戦国武将とは

・各地の代表的な戦国武将

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戦国武将とは

 

(上杉謙信像:wikiより)

戦国武将とは日本の戦国時代において、武士や農民などから徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣のことを指す言葉です。これは戦国大名も戦国武将に含まれるということを意味します。

 

では具体的に戦国武将とはどのような人物がいたのか、次の項目以降で見ていくことにしましょう。

各地の戦国武将について

 

(勢力図:オリジナル)

戦国武将の勢力図を作成しました。

 

入試で出題されたりするので、覚えておきましょう。それでは、各

北信越地方の戦国武将

 

(上杉景勝:wikiより)

まず初めに、北信越地方の戦国武将で代表的な上杉景勝について見ていきます。

 

景勝は叔父である上杉謙信の養子となり、初代米沢藩藩主になった人物です。

 

謙信の後継者として、五大老の一員にも名を連ねました。ちなみに五大老とは重要政務を執り行う有力大名のことを指します。

 

当初は景勝のほか、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景の6人でしたが、隆景が亡くなった後に、五大老と呼ばれるようになりました。

関東地方の戦国大名

 

(北条氏康:wikiより)

ここでは、北条氏康を紹介します。

 

北条氏康は、後北条氏の3代目に当たります。後北条氏については「戦国大名について解説(入試問題演習つき)【日本史第34回】」を合わせてご覧いただくとより理解が深まりますよ。

 

今川氏や武田氏と手を組んだり離れたりと駆け引きをしながら、政治的手腕も発揮して後北条氏の全盛期をけん引しました。

東海地方の戦国武将

 

(斎藤道三:wikiより)

東海地方の戦国武将で代表的なのは斎藤道三です。

 

道三は下剋上を達成した一人としてしばしば取り上げられることがある人物です。彼の父は美濃の守護土岐氏の重臣・長井氏に仕えていて、道三もまた、長井氏に出仕していました。

 

道三は主君である長井長弘を倒して稲葉山城に本拠を構え、守護代の斎藤氏が亡くなったことに乗じて、斎藤氏の名前を奪い取ることに成功しました。

 

それだけにとどまらず土岐氏を排除して支配を行い、孫である竜興の時代に織田信長に攻め込まれて滅亡するまで美濃で勢力を誇ったことで知られています。のちに信長が稲葉山城を岐阜城と改名して居城としたことをおさえておきましょう。

 

S先生
S先生
結局道三は息子との争いに負けて敗死するという最期を迎えています。

畿内の戦国武将

(松永久秀:wikiより)

松永久秀も道三同様、下剋上によって知られる人物です。

 

久秀は大和国(現在の奈良県)の戦国大名であり、もともと三好長慶の家臣でした。三好長慶は管領細川氏の家臣で、細川氏というのは寧波の乱でも登場する細川氏のことです。

 

もう少し詳しく知りたい方は「室町時代の外交を解説(入試問題も解説)【日本史第35回】」もあわせてご覧ください。

 

久秀の下克上は、長慶の死後から始まります。まず長慶の仔を毒殺して三好家を滅亡へと追い込みました。続いて久秀の息子久通らが13代将軍足利義輝を襲撃して自殺へと追いやったのち、久秀は東大寺大仏殿を焼き討ちしました。

 

その後久秀は信長に仕えていたものの、信長に対して複数回にわたって反旗を翻したため、最終的に自害に追い込まれてしまいます。

 

田中くん
田中くん

道三も久秀も下剋上したのに、最期は無残な死を遂げたんだね。

 

中国地方の戦国武将

 

(小早川隆景:wikiより)

中国地方の武将として小早川隆景を取り上げます。

 

小早川隆景は毛利元就の三男で、安芸の小早川家を継いで当時2つに分裂していた小早川家を統合したのち、毛利氏の中国覇権確立をサポートした人物です。

 

秀吉に従属しており、重要政務を行う一員にも名を連ねていて朝鮮出兵にも従軍しています。

九州地方の戦国武将

(島津義弘:wikiより)

最後に九州地方の戦国武将について見ていきます。

 

九州地方の戦国武将としては島津義弘を覚えておくといいでしょう。島津氏は鎌倉時代から江戸時代まで九州南部を中心に勢力を誇った一族です。義弘の兄は義久で、豊臣秀吉によって服属させられた人物です。

 

義弘は義久の後を継ぎ、朝鮮出兵などで活躍をしました。関ヶ原の戦いでは西軍側で奮闘を見せ、敗れはしたものの領地の所有は保証され(本領安堵)、自身は子の家久に自らの座を譲り、余生を過ごしたといわれています。

入試問題にチャレンジ

問題文

尾張の織田信長は、一族や家臣と戦って尾張を統一し、1560年に侵攻してきた駿河の今川義元を倒した。1567年には美濃の斎藤氏を攻略し、濃尾平野の北端に位置する【1】城に移った。

問 空欄【1】について、適当なものを選びなさい。

ア.岐阜 イ.安土 ウ.清洲 エ.小谷

2019年度 獨協大学 2・3科目 A方式 日本史より)

正解 ア
正解:④ ④は簡素さと豪華さが逆なので、誤りです。
正解:②
bは「おとろえた」が間違いです。室町時代には各地で特産物の生産が盛んにおこなわれるようになりました。例としては、三河の綿織物や美濃・但馬の紙などがあります。
詳しくは「室町時代の農業・商工業について解説(確認問題付き)【日本史第36回】」の記事をご覧ください。
cは「時宗や律宗からなる」が誤りです。林下は地方への布教に力を入れた禅宗諸派のことを指します。もしcが難しい場合は、今回学習したdの内容が正しいと判断して解き進めるとよいでしょう。
正解:③ 嘉吉の変は1441年、赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺した事件です。「室町幕府の衰退から滅亡までを解説(入試問題も解説)【日本史第33回】」の記事も参照してみてください。伊達氏は東北地方の大名で、伊達政宗は小田原攻めにも参加しています。
正解 ア

<解説>
正解は①。②は慶長の役ではなく、文禄の役です。③は清が間違いで、明が正解となります。④ですが朝鮮水軍を率いたのは李成桂ではなく、李舜臣です。なお文禄の役のことを壬辰倭乱、慶長の役のことを丁酉倭乱といいます。

まとめ

今回は各地の戦国武将を見ていきました。

 

織田信長や豊臣秀吉と関連付けながら、覚えていくと効率よく暗記できるので、ぜひ実践してみてくださいね。

 

前回の記事「桃山文化について解説(入試問題演習付き)【日本史第42回】」ですのでよければ読んでください。

桃山文化について解説(入試問題演習付き)【日本史第42回】
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次回の記事「江戸幕府の成立から豊臣滅亡までを解説(入試問題付き)【日本史第44回】

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コメント

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