室町幕府3代将軍足利義満~幕府権力の安定化までの道のりについて解説~【日本史B第32回】

中世

1336年、足利尊氏が室町幕府を開きますが、同時に後醍醐天皇が吉野に籠り、南北朝時代という分裂の時代が始まります。

 

他方、幕府の内部でも主導権争いから観応の擾乱が勃発。これを治めた後、1358年に足利尊氏が没します。

 

2代将軍・足利義詮が将軍に立った当初は、尊氏がいなくなり武士同士が争う→南朝に投降→南朝勢力が増すという状況で、幕府設立から20年が経っていましたが、内外共に安定していませんでした。

 

義詮はこの状況を打破するため、

  • 将軍権力の強化
  • 南朝側の大名の懐柔(大内氏、山名氏など)

 

を政策として進め、これにより徐々に幕府への大名の帰順が促され、南朝の勢力は弱まっていきました。

 

しかし1368年、幕府権力の安定までもう少しでしたが、足利義詮は没します。ここで、足利義満が登場します。

 

幕府権力の安定の総仕上げをミッションとして将軍に登板した足利義満について解説していきます。

今回の記事のポイント・足利義満は尊氏、義詮から続いていた幕府権力の安定化がミッションだった・有力大名を弱体化(土岐氏、山名氏)

・南北朝を合一させた

・幕府の政治機構を整備(三管領・四職の制度)

・直轄軍である奉公衆を設置(軍事力)

・朝廷の権限を接収(警察権、裁判権、徴税権)

・太政大臣に就任(朝廷の最高位)

・五山十刹の制を整備(仏教へも影響力を持つ)

・明との貿易を行う(富の最大化)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

大名権力の弱体化

(足利義満:wikiより)

20歳前後で政界に登場した足利義満は、まず幕府権力を安定化させるため、強大化した大名の勢力を削ることに着手しました。

 

土岐康行の乱

土岐氏の家督相続に介入します。

 

幕府創設時に貢献した土岐頼康が亡くなり、息子の土岐康行・土岐満貞の間で家督争いが起きます。

 

足利義満の相続方針に不満を持った土岐康行は挙兵します。幕府に鎮圧され、土岐氏は勢力を削がれることになります。

明徳の乱

11ヵ国を保有していた山名氏(六分の一衆)を内部崩壊させるため、家督相続に介入します。

 

山名氏は京都市中で幕府に対し戦闘をしかけ敗北。領土は3ヵ国まで減り、弱体化します。

南北朝合一

1392年、土岐氏・山名氏が弱体化し、幕府権力は強化されます。ここで足利義満は、分裂した南朝と北朝を1つに戻す交渉を開始します。

 

南北朝合一の条件には、

  • 三種の神器の返還
  • 大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が交代に天皇に即位する

などが含まれていました。

 

実態としては、力を失っていた南朝を北朝が吸収合併したイメージに近いため交互に天皇を即位させる条件などは守られませんでした。

幕府権力のさらなる強化

幕府権力を強化するため、有力大名や南朝の弱体化を進めながら、平行して将軍自体の権力強化と朝廷や仏教への影響力の強化を図っています。

・京都市中における権限の接収:将軍権力の強化

全国の政治、商工業の中心である京都における警察権、民事裁判権、土倉・酒屋に対する課税権など、朝廷が保持していた権限を幕府の管轄下に置きました。

足利義満の直属部隊「奉公衆」:将軍権力強化

将軍権力を下支えする軍事力を持つことを目的とし、将軍直属の特別部隊「奉公衆」を設置します。

 

奉公衆は将軍の護衛をする他に、諸国に散在する将軍の直轄領である御料所を与えられ、地方の守護を牽制する役割を持ちました。先述した明徳の乱の鎮圧にも一役買っています。

三管領、四職の制度:将軍権力強化

幕府内の統治をスムーズに行うため、序列・役割を決めました。

 

将軍の補佐役である管領には、細川・斯波・畠山の3氏が交替で任命されました。

 

この3氏は三管領と呼ばれています。侍所、政所など幕府の中枢を統括、諸国の守護への命令伝達の役割も担いました。

 

また、京都内外の警備や刑事裁判を司る侍所の長官(所司)には、一色・山名・赤松・京極の4氏から選ばれるようにしました。この4氏は四職と呼ばれています。

 

五山十刹の制:対仏教

寺院に格付けをして上位に幕府と関係性の深い寺院を置きました。幕府(関東の武士団)は、臨済宗寺院と関係が深いため、臨済宗寺院が上位を独占しています。

 

一方、時の権力者の思いのままにならない「比叡山(天台宗)」への牽制の意味も含まれていました。

京都五山

  • 別格 :南禅寺
  • 第一位:天龍寺
  • 第二位:相国寺
  • 第三位:建仁寺
  • 第四位:東福寺
  • 第五位:万寿寺

 

※足利義満の時代、第一位は相国寺(義満が建立)でした。
※時代により順位が変動します。

朝廷の最高職、太政大臣に就任:対朝廷

幕府の統治体制が整備される中で、弱体化が進んでいた朝廷から幕府は警察権、裁判権、徴税権など様々な権限を接収しています。

 

このようにして朝廷を無力化し、幕府・将軍に権力が集中した段階で、足利義満は朝廷の最高位:太政大臣に就任します(1394年)。

文化、貿易

 内乱を鎮圧し幕府権力がかつてないほど安定する中で、太政大臣に就任した翌年、足利義満は出家します(1395年)。

 

そしてその目は文化、海外(貿易)に向いていきます。

金閣寺

出家した後も権力を維持していた足利義満は、京都に北山殿と呼ばれる壮大な別荘を建て、そこで政治を行いました。

 

この北山殿の中にある、金箔で全体を覆った寺院が金閣寺です(1397年)。

日明貿易

明との貿易による利権を得ようとしますが、朝鮮や明との貿易は周防(山口県)で大きな勢力を持つ大内義弘がすでに行っていました。

 

これでは貿易ができず、さらに貿易の利益で大内氏が強大化することを警戒した足利義満は、謀略で大内義弘に揺さぶりをかけ謀叛を起こさせます(応永の乱)。

 

これを鎮圧し、大内氏の勢力を削ると同時に、明との貿易を独占することになります。

【入試問題にチャレンジ】

長期化していた南北朝の内乱も足利義満の時代には終息に向かった。この時期には幕府機構の整備も進み将軍を補佐する【 ア 】には足利一門の有力守護が交替で任命された。義満は軍事・財政にも力を入れ【 イ 】と呼ばれる直轄軍を編成し、地方の幕府直轄領を管理させた。幕府はこの直轄領からの収入のほか、京都の金融業者や流通業者に課税し、財源としたが、その背景には地方での諸産業の発達と、それにともなう商業・流通の活発化がある。義満の施策は宗教にもおよび、南宋の制度にならって五山の制を整えた。これは禅宗保護策であると同時に、住職の任免などを通じた、幕府による仏教統制策でもあった。

 

問 空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを、次の①~④のうちか一つ選べ。

 

  • ① ア 執権  イ 評定衆
  • ② ア 執権  イ 奉公衆
  • ③ ア 管領  イ 評定衆
  • ④ ア 管領  イ 奉公衆

 

解 ④

・執権  :鎌倉幕府の将軍の補佐役。
・評定衆:鎌倉、室町の両幕府において裁判・政務を行う。
・管領  :室町幕府における将軍の補佐役。細川・斯波・畠山の3氏が交代で任命される。
・奉公衆:室町幕府の将軍権力を下支えする軍事力。将軍直轄の軍隊。

 

 

まとめ

足利尊氏の時代に幕府が創設されましたが内乱が続き、2第将軍の足利義詮が内乱鎮圧に向けて道筋をつけました。最後の仕上げとして足利義満が登場し、有力大名の弱体化、南北朝の合一を経て内乱を鎮圧。その後は、権力強化策を実施しました。

  • ・京都市中における権限の譲渡
  • ・足利義満の直属部隊「奉公衆」
  • ・三管領・四職の制度
  • ・五山十刹の制

さらに強大な権威(太政大臣)、富(日明貿易)も手に入れ室町幕府の全盛期を作り上げました。

 

前回の記事は「室町幕府の誕生(南北朝時代)流れをわかりやすく解説【日本史B 第31回】」です。

室町幕府の誕生(南北朝時代)流れをわかりやすく解説【日本史B 第31回】
12世紀末から続く政局の不安定や飢饉などにより、有効な対策を講じられなかった鎌倉幕府は急速に求心力を失い、1333年に滅亡しました。その後、後醍醐天皇の「建武の新政」がありました。 しかし、建武の新政は、公家と武家から現実にあ...

 

日本史全体像を理解するには「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」がおすすめです。全体の流れが頭に入ってくるおすすめの一冊です。ぜひとも一読をおすすめします。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

コメント

  1. […] 前回の記事「室町幕府3代将軍足利義満~幕府権力の安定化までの道のりについて解説~」ですのでよければ読んでください。 […]

タイトルとURLをコピーしました