江戸幕府の成立から豊臣滅亡までを解説(入試問題付き)【日本史第44回】

江戸幕府とは1603年に徳川家康によって江戸に開かれた幕府です。

 

同年に征夷大将軍となった家康は支配力を高めていき、将軍職を辞した後も大御所として政治の実権を握りました。

 

それと同時に依然として残っていた豊臣氏の勢力を滅亡へと追い込むとともに、全国の大名に対する統制を進めました。

 

今回は江戸幕府の成立から豊臣滅亡までを詳しく解説した上で江戸幕府の制度である親藩・譜代・外様・老中の役割についても解説しました。

 

また、江戸幕府成立、豊臣氏の滅亡及び武家諸法度の年代は受験に必須ということもあり語呂合わせを用意しました。

 

さらに、この時代の内容についてアウトプット出来るよう入試問題も用意してあるので最後まで読んで下さい。

この記事からわかること・1603年に江戸幕府が成立した。

・家康は1614年・1615年の2度にわたって大坂冬の陣・大坂夏の陣をした結果、豊臣氏を滅亡へと追い込んだ。

・江戸時代において大名は親藩・譜代・外様の3つに分けられ、分類に応じて各地域に配置された。

・老中が主に幕府の政務を統括していた。

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江戸幕府の成立

 

(徳川家康像:wikiより)

 

1600年に起こった関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康1603年に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます

 

家康は佐渡をはじめとする国内の鉱山を直接支配すると同時に、全国の大名に国絵図郷帳の作成を命じました。

 

国絵図とは国ごとの地図です。また郷帳とは郡単位で記載された村ごとの石高(米の収穫量を土地で表したもの)を一国単位でまとめた帳簿のことを指します。

 

なぜ家康は大名に国絵図や郷帳を作らせたのでしょうか?

 

それは家康自身が全国の支配者であることを大名たちに知らしめるためでした。

 

こうして支配力を強めていった家康でしたが、1605年に将軍職を子の秀忠に譲りました。その目的は将軍職が徳川氏の世襲であることを示すためです。

 

しかし家康は将軍職を辞して駿府に移ったあとも、大御所として実権を握り続けました。

 

これからは2代将軍秀忠の時代へと入っていきます。

豊臣氏の滅亡について

(豊臣秀頼像:wikiより)

江戸幕府を開いた家康でしたが、決して安心ができない理由がありました。それは豊臣氏の存在があったからです。

 

豊臣氏は摂津・河内・和泉の1大名となったものの、依然として多くの大名から支持を集めていて、大坂城にいた豊臣秀頼が父秀吉の地位を名目的に継承している状態でした。

 

そこで家康は豊臣氏が建立した京都の方広寺にあるつりがねの文字「国家安康 君臣豊楽」を口実に豊臣氏を攻撃しました。

 

「国家安康」という部分に注目すると、家康という文字が分断されていることが分かります。

 

これを家康が自らに対する反逆だととらえたのです。この一連の事件を方広寺鐘銘事件といいます。

 

この事件をきっかけに家康は1614年に大坂冬の陣、翌1615年には大坂夏の陣と計2度にわたって豊臣氏と戦いをしました。

 

これらの戦をまとめて大坂の役ともいいます。その結果秀頼は自害し、豊臣氏は滅亡へと追い込まれました。

江戸幕府の政治体制

 

(徳川秀忠像:wikiより)

江戸初期の政治

豊臣氏を滅亡に追い込んだ幕府は続いて全国の大名を統制することに着手します。

 

大坂夏の陣直後の1615年に大名が住む城を1つに限定する一国一城令と、大名を統制する武家諸法度を出しました。

 

武家諸法度は家康が南禅寺金地院の崇伝に書き起こさせたもので、将軍秀忠の名で発布されました。

 

以後将軍の代替わりごとに発布されていて、秀忠の代に出された武家諸法度は元和令(げんなれい)とも呼ばれています。

 

また同年には朝廷や公家を統制する禁中並公家諸法度を出しました。1619年には無断で広島城を改築した福島正則の領地を没収するなど、大名に対して法度の遵守を厳しく求めました。

江戸幕府の大名配置・政治体制について

江戸時代において、大名とは石高が1万石以上の武士のことを指します。

 

そして大名は将軍との関係性によって親藩譜代外様の3つに分けられます。

 

親藩は徳川氏一門の大名です。

 

とくに将軍の後継を出せる家柄として最高位に位置付けられた尾張・紀伊・水戸家のことを御三家といいます。譜代とは関ヶ原の戦い以前から徳川氏の大名であった者のことです。

 

外様は関ヶ原の戦い前後に徳川氏に従った大名を指します。親藩・譜代を要所に、外様は遠隔地に配置しました。

 

政治に関しては老中が幕府の政務を統括しました。

 

将軍が一番上の地位で、その次には本来なら大老がきますが、臨時の最高職ということもあって老中がメインとなったわけです。もう少し詳しい説明に関しては次回記事「徳川家光の政策(参勤交代)や政治機構について解説(入試問題付き)【日本史第45回】」をご覧ください。

 

S先生
S先生
大名は1万石以上の武士のことを指しますが、1万石未満の武士の中で将軍に会える武士のことを旗本、将軍に会えない武士は御家人といいます。

 

ちなみに人気アイドルグループの乃木坂46の「御三家」といえば、白石麻衣さん・橋本奈々未さん・松村沙友理さんだよね。
たなかくん
たなかくん

 

S先生
S先生
…。(日本史に集中してないな、コイツは…)

 

それでは、この時代について受験に必要な出来事の年代を覚えるための語呂合わせを紹介します。勉強の参考にして下さい。

 

江戸幕府の語呂合わせ

江戸幕府成立:人群れさ(1603)わぐ江戸幕府
豊臣滅亡:異論以後なき(1615)、豊臣滅亡
武家諸法度:武家の顔色以後(1615)変わる

入試問題にチャレンジ

問 下線部dに関連して、1615年の出来事として誤っているものはどれか。次のア~エのうちから一つ選びなさい。

ア 大坂夏の陣 イ 一国一城令発令

ウ 最初の武家諸法度発令 エ 参勤交代の制度化

2020年度 桃山学院大学 推薦入試/一般入試 日本史 大問Ⅱ 問6より)

 

正解:エ 3代将軍徳川家光の時代であった1635年の寛永令によって参勤交代が制度化されたので、エが誤りです。

まとめ

今回は江戸幕府の成立から豊臣氏の滅亡、大名の分類までを見ていきました。

 

家康が行った取り組み一つ一つに隠されている目的をしっかりと理解しながら、知識を暗記していくと記憶に残りやすいですよ。語呂合わせも掲載しているので、ぜひ参照してみてくださいね。

 

前回の記事「覚えておくべき戦国武将まとめ(入試問題演習付き)【日本史第43回】」ですのでよければ読んでください。

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次回の記事「徳川家光の政策(参勤交代)や政治機構について解説(入試問題付き)【日本史第45回】

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