秀吉の全国統一について解説(入試問題も解説)【日本史第40回】

中世

織田信長は近畿・東海・北陸地方を支配下に入れたものの、志半ばで夢破れてしまいます。

 

しかし全国統一は彼の家臣である豊臣(羽柴)秀吉に引き継がれることになりました。

 

秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破ったことを皮切りに、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を倒すなど力をつけていきます。

 

さらなる権力拡大を目指して関白に就任し、反発する勢力を抑え込んでいきました。そして1590年に全国統一を果たしたのです。

 

今回は秀吉がどのようにして全国統一を果たしたのかについて見ていきましょう。

 

この記事からわかる、秀吉がしてきたこと・1582年の山崎の戦いで明智光秀を破った。

・翌1583年には賤ケ岳の戦いで柴田勝家を倒した。

・さらに1585年には関白に、翌年には太政大臣に就任した。

・1586年には惣無事令を出し、争いをやめるよう命じた。

・1588年、聚楽第に大名を集めて後陽成天皇の前で忠誠を誓わせた。

・1590年に、全国統一を完成させた。

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秀吉の登場

 

(豊臣秀吉:wikiより)

1582年に本能寺の変で織田信長が自害に追い込まれたとき、秀吉は中国地方の有力大名である毛利氏と戦っていました。

 

ここで秀吉は毛利氏と和睦し、京へと戻って山崎の戦いで明智光秀を倒します。

 

このとき戦った場所が天王山です。今でも「受験の天王山」などのように「勝負や運命の分かれ目」としても使われる言葉なので、聞いたことがある方もいるのではないでしょうか?この天王山という言葉は、実は山崎の戦いが由来だったというわけです。

 

また山崎の戦いの翌年(1583年)には賤ケ岳の戦い柴田勝家を破ったことで、信長の後継者としての地位を確固たるものにしました。

 

同じ年には水陸交通にめぐまれた石山本願寺の跡地に大坂城を築き、自らの力を示したのでした。

 

しかしそれでもまだ戦いは続いていきます。次の項目で見ていきましょう。

敵対勢力の出現

 

(織田信雄:wikiより)

1584年、秀吉の権力拡大に反発した信長の次男・織田信雄や徳川家康と小牧・長久手の戦いで争います。しかし最終的には和睦をして信雄は秀吉に臣従することになりました。これによりさらに秀吉の権力が拡大していったのです。

 

次に秀吉が目指したのは、朝廷内部で権威を手に入れるために関白になることでした。

 

そこで秀吉は目的を達成する手段として、五摂家の一つである近衛家の養子となりました。そして1585年にはついに関白に就任します。また同年には長宗我部元親を服属させ、四国平定も行いました。

 

さらに1586年には太政大臣に任命され、後陽成天皇から「豊臣」という姓を与えられたのでした。

 

こうして着実に力をつけていった秀吉は、いよいよ全国統一へと向かっていったのです。

全国統一

 

(聚楽第:wikiより)

ここでは、全国統一を果たすまでの数年間の流れを見ていきます。

 

太政大臣・関白となった秀吉は1586年、全国に惣無事令を出しました。惣無事令とは、全ての戦国大名に対して争いをやめるように命じたものです。加えて領国の確定を秀吉自らに委ねるよう強制しました。

 

しかしこれに反発する者が出てきたので、秀吉は彼らを次々と討伐していったのです。

 

まず1587年に九州の島津義久を降伏させ、九州平定を行います。翌1588年には新築した京都の聚楽第(じゅらくてい)に諸大名を集め、後陽成天皇の前で秀吉への忠誠を誓わせました。

 

そして1590年に小田原の北条氏政を倒し(小田原攻め)、伊達政宗をはじめとする東北地方の諸大名を服属させて奥州平定をすることにも成功したのです。これにより、ついに全国統一が完成しました。

語呂合わせ

秀吉に関連する年号は多いので、覚えにくいと感じている方もいらっしゃるかと思います。そこでこの項目では、重要な年号にまつわる語呂合わせを3つ紹介します。ぜひ参考にしてみてくださいね。

 

関白就任:以後はご(1585)りっぱ、関白秀吉
惣無事令:争いは、以後はやめろ(1586)と、惣無事令
天下統一:秀吉が、戦国まる(1590)っと、天下統一

入試問題にチャレンジ

1582年、統一事業を進めていた織田信長は、その一環として四国への派兵を計画していた。しかし、信長は明智光秀が起こした【エ】で敗死し、計画は実行されなかった。信長のあとを継いで、全国を統一したのは豊臣(羽柴)秀吉である。秀吉は、信長の有力家臣であった光秀や柴田勝家を戦いで破って、信長の後継者の地位を確立していった。

(中略)

これ(服属)以後、元親は秀吉から軍事的な負担を課されることになった。全国統一の過程では、九州の島津氏や関東の【オ】を責めるために動員された。

問 空欄【エ】【オ】に入る語句の組合せとして正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

① エ 嘉吉の変(嘉吉の乱) オ 北条氏

② エ 嘉吉の変(嘉吉の乱) オ 伊達氏

③ エ 本能寺の変      オ 北条氏

④ エ 本能寺の変      オ 伊達氏

2015年 センター試験 本試験 日本史B 第3問 問4より)

正解:②
bは「おとろえた」が間違いです。室町時代には各地で特産物の生産が盛んにおこなわれるようになりました。例としては、三河の綿織物や美濃・但馬の紙などがあります。
詳しくは「室町時代の農業・商工業について解説(確認問題付き)【日本史第36回】」の記事をご覧ください。
cは「時宗や律宗からなる」が誤りです。林下は地方への布教に力を入れた禅宗諸派のことを指します。もしcが難しい場合は、今回学習したdの内容が正しいと判断して解き進めるとよいでしょう。

 

正解:③ 嘉吉の変は1441年、赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺した事件です。「室町幕府の衰退から滅亡までを解説(入試問題も解説)【日本史第33回】」の記事も参照してみてください。伊達氏は東北地方の大名で、伊達政宗は小田原攻めにも参加しています。

まとめ

今回は秀吉がどのようにして全国統一を果たしたのか見てきました。

 

秀吉は明智光秀・柴田勝家を破った後、関白・太政大臣に就任して権力を拡大していきます。その後、反発した島津氏を服属させ、北条氏を滅亡へと追い込んだのです。そして1590年に全国統一を達成したのでした。

 

秀吉が明智光秀や柴田勝家を倒して力をつけていく過程や反発する勢力を次々に倒していくところは織田信長と近い点があります。

 

統一までの流れをしっかりマスターしていてください。

 

前回の記事「織田信長の統一過程について解説~本能寺の変まで~(入試問題付き)【日本史第39回】」ですのでよければ読んでください。

織田信長の統一過程について解説~本能寺の変まで~(入試問題付き)【日本史第39回】
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次回の記事「秀吉の政策~安土桃山時代の終焉までを解説 (入試問題付き)【日本史第41回】

秀吉の検地・刀狩り・朝鮮出兵から安土桃山時代の終わりまでを解説(入試問題付き)【日本史第41回】
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コメント

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