こんにちは。今回も受験生に役立つシリーズをはじめます。今回のシリーズ第5回は古代ローマの続きをお話しします。。今回は帝政ローマについてお話します。
内乱の1世紀を終わらせ、帝政ローマを始めたのはアウグストゥスでした。帝政ローマは前半の元首政と後半の専制君主制の二つの時期に分けられます。ローマ帝国がどのようにしてできたか、帝政ローマについて見てみましょう。
ちなみに、前回は「【世界史B】受験生に役立つヨーロッパの歴史(古代ローマ:ユリウス=カエサル以前)」についてお話ししました。未読の方は是非読んでください。
今回の話のまとめ・カエサルの死後、第二回三頭政治を経てアウグストゥスが元首政を始めた
・五賢帝時代はローマ帝国の最盛期
・専制君主政はディオクレティアヌス・コンスタンティヌス・テオドシウスの3人の区別が大事
帝政ローマの始まり
三頭政治でクラッスス、ポンペイウス、カエサルの3名の有能な人間が政治を運営していこうという流れでした。みんなで決める共和制から帝政への過渡期と言えます。
今回は、ここからのお話です。
カエサルの時代
(ユリウス=カエサル像:ルーブル美術館所蔵wikiより)
紀元前53年、第一回三頭政治の一人であるクラッススは西の大国パルティアとの戦いに敗れて死んでしまいました。
元老院はクラッススが死に第一回三頭政治が崩壊したタイミングをとらえて、ポンペイウスを味方につけました。元老院にとって、ガリアでの勝利を『ガリア戦記』という本で宣伝し、人気を高めていったカエサルの方が怖かったからです。
怖いと言ったら、カエサルは元老院の3分1の妻を寝とっていたそうです。あだ名は「ハゲの女たらし」。色んな意味で怖いですよね。モテた秘訣はプレゼント攻撃が凄かったそうな。
ところで、ガリアで力をえたカエサルを恐れ元老院はカエサルに軍隊を放棄してローマに帰るよう命じます。カエサルにすればこのままローマに帰還すれば自分の軍を解体され力を取られてしまいます。
かと言って、ローマに反旗を翻すべきか。その時に軍隊を解体せずに渡った川がルビコン川。そう、カエサルはルビコン川を渡りローマに反旗を翻す意思を示します。
自分の運命を決定づける時に「ルビコン川を渡れ!」というフレーズがありますが、そんなに広い川ではないそうです。人がちょっと飛び越えて渡れる川だそうです。
人生を決断するのに実はそんなに大きなキッカケなんていらないのかもしれませんね。ちなみに、「サイは投げられた」というフレーズも有名ですね。
カエサルは元老院の命令に反して軍をひきいてローマに向かいました。その後、カエサルはポンペイウスや元老院派の軍を打ち破って独裁政権をつくります。
しかし、カエサルの独裁に反対した人々が彼を暗殺してしまいました。暗殺者の中にカエサルの愛人の子(ブルータス)もいたことから、「ブルータス、お前もか」という言葉を発したそうです。
カエサルについてオススメの書籍ですが、この辺りのことを詳しく塩野七生が書いています。是非ともご一読ください。
第二回三頭政治
(アクティウムの海戦:Lorenzo A.Castro:wikiより)
カエサルの死後、カエサルの部下だったアントニウス、レピドゥスとカエサルの養子であるオクタヴィアヌスが第二回三頭政治を始めます。
この中でレピドゥスの力が弱かったので、アントニウスとオクタヴィアヌスの二人がローマのトップの座をめぐって争いました。
アントニウスはプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと手を組み、オクタヴィアヌスの軍と戦います。この辺りはシェイクスピアの「ジュリアス=シーザー」という題目の劇が有名ですね。
これが、アクティウムの海戦です。結果、オクタヴィアヌスが勝利し、アントニウスとクレオパトラは自殺、プトレマイオス朝エジプトは潰れてローマの属州となりました。
プトレマイオス朝エジプトはディアドコイ戦争から出てきましたね。覚えていますか。気になる人はこちら
アウグストゥスの元首政
(プリマポルタのアウグストゥス像:wikiより)
オクタヴィアヌスは紀元前27年に元老院からアウグストゥスという称号をもらいました。以後、彼はアウグストゥスとよばれます。
アウグストゥスはカエサルが暗殺された理由をローマ人が王や独裁者を嫌うからだと考えました。養父の状況を見てきましたからね。
そのため、アウグストゥスは「自分は市民のナンバーワンだけど、独裁者ではないよ」とアピール。自分は
市民の第一人者(元首・プリンケプス)
だと称して元老院を尊重する姿勢を示しました。そのことから、アウグストゥスが始めたローマ帝国の前半を元首政とよびます。名前だけ見れば、別に独裁的な感じはしないですよね。
しかし、軍の指揮権をもつアウグストゥスは絶対的な存在で、事実上は皇帝・君主だといっていいでしょう。カエサルが戦争の天才だとするなら、アウグストゥスは政治の天才だったのかもしれませんね。
前期帝政(元首制)
元首政の時期、皇帝は絶対的な存在ではなく元老院や平民会も存在していました。共和政時代と同じように執政官や護民官も任命されています。
そういう意味では独裁者ではありません。しかし、軍の指揮権を持つ元首の力は絶大でした。その力を誤って使ったネロは暴君とよばれます。
一方で、元首の力を良い方向に使いローマ帝国を発展させた皇帝たちもいました。彼らのことを五賢帝といいます。
暴君ネロ
(ネロとセネカ像:wikiより)
ローマ帝国の最初のころ、カエサルやアウグストゥスの血筋をひくものが元首の座につきました。
そして5代目のネロは暴君として知られます。最初はストア派の哲学者セネカの補佐もあって評判が良かったのですが、次第に狂った政治をするようになります。
ローマ市で大火が起きた時はキリスト教徒に罪をなすりつけて大弾圧をしました。詳しくは「【世界史B】受験生に役立つヨーロッパの歴史(キリスト教の成立と発展)第七回」を読みましょう。
人望を失ったネロは元老院に解任され自殺します。
五賢帝時代(パクス・ロマーナ)
(ハドリアヌスの長城:wikiより)
次に、世襲ではなく優れた者がリーダーとなる五賢帝の時代が来ます。
五賢帝とは、元首政時代のすぐれた皇帝5人のことを言います。ローマは優れた5人の皇帝を輩出し、安定します。
ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス=アントニヌスが五賢帝として数えられます。
五賢帝時代は元首である皇帝と元老院が協調して政治を行い、対外戦争でも勝利。帝国が最も安定した時代でした。
このアウグストゥスから五賢帝までの時代をパクス・ロマーナ(ローマの平和)と言います。インドのサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)と交易がありました。サータヴァーハナについては「クシャーナ朝からグプタ朝まで(仏教とヒンドゥー教の流れを解説)」を読んでください。
良く出題されるのは3人。トラヤヌス・ハドリアヌス・マルクス=アウレリウス=アントニヌスです。しっかりと覚えましょう。
トラヤヌスは優秀な軍人でローマ帝国の領土を最大にしました。「領土最大」というキーワードが出れば彼のことですね。
次にハドリアヌスはブリテン島などに長城を建築しました。ハドリアヌスの長城はいまだに残っていて上記写真の通りです。
マルクス=アウレリウス=アントニヌスはストア派の哲学者でもあり、『自省録』という本も書いています。中国の前漢の光武帝の時代に遣いを送っています。「大秦王安敦」という名前で残っています。
後期帝政(専制君主制)
(軍人皇帝時代のローマの属州:wikiより)
3世紀に入ると、ローマ帝国は軍人出身の皇帝が頻繁に交替する軍人皇帝時代となります。
この混乱を抑え、帝国を再統一したのがディオクレティアヌスでした。このころには元老院は無力となり、皇帝による専制君主制が行われます。
4世紀初めのコンスタンティヌスはキリスト教を公認し首都をビザンティウムに移します。その後、帝国は分裂しますが392年にテオドシウスが再統一。これが、最後の統一となりました。
出題ポイントは
- ディオクレティアヌス
- コンスタンティヌス
- テオドシウス
の比較です。
誰が何をやったかをしっかりと整理しておきましょう
軍人皇帝時代
(軍人皇帝マクシミアヌスの硬貨)
軍人皇帝時代とは3世紀中ごろに軍人出身の人物が次々とローマ皇帝に即位した時代です。その数、なんと26人。次から次へと皇帝が出ては消えを繰り返します。
中には、ササン朝ペルシアに戦いを挑んで破れてしまう皇帝ウァレリアヌスもいました。259年、彼はは軍勢を率いてペルシアへと侵攻しましたが、エデッサ(現在のシャンルウルファ)でシャープール1世率いるペルシア軍との戦いに敗れて捕虜となってしまいます。(エデッサの戦い)
ササン朝ペルシアについての記事は「受験に役立つオリエント史(アジア史) 第5回【ディアドコイからパルティア、ササン朝ペルシア】」に詳しく書いていますので、是非読んでください。
一人一人の在位は短く、不安定な時代でした。皇帝の位は軍隊の意向によって左右され、元老院は無力化します。政治がもはや混乱の極みでした。
ディオクレティアヌス帝国再統一
(キリスト教徒迫害の絵)
軍人皇帝時代の混乱を収拾したのがディオクレティアヌスでした。ディオクレティアヌスは広くなりすぎたローマ帝国を一人の皇帝が統治するのは不可能だと判断します。
帝国を四つに分割し、それぞれに責任者を置き、自分が4人の責任者のトップとして決定権を握る仕組みを作りました。これを四帝分治(テトラルキア)といいます。
ちなみに、サンマルコ広場にテトラルキアの銅像がありますが、この像について何を意味するかという問題が上智大学で出題されています。イメージで覚えておきましょう。
(サンマルコ広場のテトラルキア像:wikiより。)
彼は、皇帝に権力を集め人々に皇帝崇拝を強要しました。ただし、ディオクレティアヌスの命令に従わなかったのがキリスト教徒です。
彼らは、神ではないディオクレティアヌスを崇拝できないとして命令を拒否します。ディオクレティアヌスはキリスト教徒を帝国の支配に従わない危険分子と判断し徹底的に弾圧しました。
ディオクレティアヌスが始めた皇帝に権力を集中させる仕組みを専制君主政(ドミナトゥス)といいます。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス
(コンスタンティヌスの凱旋門)
ディオクレティアヌス引退後、帝国は再び混乱状態に陥りました。キリスト教徒など抵抗勢力がローマ内で力を持っていたのですね。
キリスト教の流れについては「ローマ時代から宗教改革までのキリスト教の歴史をまとめました【世界史B】」が詳しいのでこちらも参考にしてください。
この混乱を収拾したのがコンスタンティヌスです。彼については以下の4点をしっかりと覚えましょう。
- コンスタンティヌスはミラノ勅令を出してディオクレティアヌスが敵視したキリスト教を一転して公認します。キリスト教徒を自分の味方につけました(313年)。
- 325年にはニケーア公会議を開いて、キリスト教のうちアタナシウス派を正統と位置づけます。つまり、キリスト教徒で保護する対象を決めたのですね。
- 330年、コンスタンティヌスはビザンティオン、現在のイスタンブールに首都を移しコンスタンティノープルと名付けます。
- コンスタンティヌスはコロヌスが自由に土地を離れることを禁止しました。これにより、税を取りやすくしようとしたのです。
ローマ帝国後期にはラティフンディアにかわってコロヌスとよばれた小作人に土地を貸して地代をとるコロナトゥスが盛んになります。そのため、小作人を土地に縛ろうとする政策でした。
キリスト教を国教化したテオドシウス
375年にゲルマン人の大移動が始まると、ローマ帝国はゲルマン人の圧力にさらされ混乱します。いきなりゲルマン人が移動し帝国内に入ってくるわけですから。
そこで一時、東西に分裂した帝国を再統一したのがテオドシウスでした。彼はキリスト教を軸に国家の統一を維持しようと、キリスト教を国教化します。
コンスタンティヌスが、キリスト教を公認し、テオドシウスが国教にしたというのをしっかりと押さえましょう。順番などごちゃごちゃにする人がいるのでこれは要注意ポイントです。
しかし、テオドシウスの死後、帝国は東西に分裂。二度と再統一されることはありませんでした。講義は今回ここまでです。次回はゲルマン人の大移動からとなります。
お疲れ様でした。
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