こんにちは。今回は宋の建国から北方民族(遼、西夏、金)との攻防から南宋の建国について語ります。今回の範囲は出題されやすく、特に靖康(せいこう)変など漢字を書かせることが多いので書ける練習をしておきましょう。また、位置関係として地図やをしっかりと覚えておきましょう。
今回の解説での宋と北方民族(遼、西夏、金)との関係について表にまとめてみました。これを参考に本文をよんでみてください。遼、西夏、金の知識は必須です。
北方民族の国名 | 民族 | 建国者 | 宋との関係 |
遼(後に西遼) | 契丹人 | 耶律阿保機(西遼:耶律大石) | 澶淵の盟 |
西夏 | タングート | 李元昊 | 慶暦の和約 |
金 | 女真族 | 完顔阿骨打(ワンヤンアクダ) | 靖康の変→紹興の和議 |
五代十国の混乱を治めた趙匡胤は宋を建国します。宋の二代皇帝太宗は北漢を滅ぼして中国を統一します。強力な中央集権国家となった宋ですが、節度使から軍権を奪うなど中央集権を進めた結果、国境の防御力が弱い国家となってしまい、周辺諸国からの侵入を招きます。
それでは、宋と北方民族についてまとめていきましょう!
今回の記事のポイント・趙匡胤が荘を建国。節度使の力を弱め科挙官僚たちを登用する文治政治を実行
・宋は遼と澶淵の盟、西夏と慶暦の和約を結び貢物を差し出した
・王安石の新法は入試必出です。6法すべて覚えるべし
・新法党と旧法党の対立は宋を二分する争いとなり、宋の国力は低下
宋の建国と文治主義
(趙匡胤:wikiより)
960年、後周の節度使だった趙匡胤は後周を滅ぼし、宋を建国。都を開封に置きました。979年、二代皇帝となった太宗は北漢を滅ぼして中国全土を統一します。
宋は唐末から五代十国時代の教訓として節度使に力を与えすぎると中央政府の命令を聞かなくなることを学びました。そのため、節度使から軍権を取り上げます。
かわって派遣されたのが科挙で合格し殿試とよばれる皇帝面接をクリアした科挙官僚でした。科挙官僚たちは儒教の影響を強く受けており、皇帝に対し強い忠誠心を持ちます。これにより、皇帝の権力は他の王朝よりも強いものとなりました。
科挙制度については宮崎市定先生の「科挙−中国の試験地獄」が圧倒的に面白いです。科挙でのカンニングの話や全人生をかけて科挙を受験し続けた老人の話など単なる制度以上の話が知れて興味がモテること間違いなしです。ぜひ、一読をおすすめします。
宋に侵入を繰り返した周辺諸民族
(契丹人:wikiより)
宋の軍隊のうち、強力な部隊は中央に集められ皇帝直属の禁軍とされました。地方には各地を防衛する部隊が置かれますが禁軍よりもはるかに弱く、周辺諸国の侵入に対して有効な反撃ができませんでした。
宋軍が弱体だと見るや周辺諸国は宋の国境地帯に攻め込み、略奪を行いました。モンゴル高原から中国の東北地方を勢力下に収めていた契丹人たちは遼という国を作ります。遼の建国者は耶律阿保機ですね。
宋は後晋から遼に割譲された燕雲十六州を取り戻すべく何度も攻め込みますが撃退されてしまいます。そのため、宋は遼と澶淵の盟を結びます。
澶淵の盟では、宋は国境線を維持する代わりに毎年銀10万両、絹20万匹を遼に贈ることを約束します。また、宋は西夏との間で慶暦の和約を結びます。こちらは毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を西夏に贈るという内容です。
王安石の改革
(王安石:wikiより)
遼や西夏に毎年銀や絹を贈ることは宋の財政に大きな負担を与えました。また、人件費や巨額の軍事費で悪化した財政を立て直すため、神宗は宰相の王安石に改革立案を命じます。王安石が行った改革を「王安石の新法」とよびました。王安石の新法の6法の名前は以下の通りです。内容とともに覚えましょう
青苗法、均輸法、市易法、募役法、保甲法、保馬法
王安石の新法は富国策と強兵策の二つに分けられます。王安石は新興地主が土地を蓄え過ぎ、税金逃れを行っていることや大商人による利益独占と脱税が国家財政悪化の原因と考えました。そのため、王安石は中小農民や中小商人を保護する政策を立案します。具体的な内容は以下のとおりです。
- 青苗法では農民に低利で資金や種子を貸出、高利貸しからの借り入れを防ぎました。
- 均輸法では政府が各地の特産物を買い入れ、不足地に売却することで価格差を利用した暴利を防ごうとしました。
- 市易法では中小商人に国が低利で資金を貸し付けを行い、大商人に対抗できるように計らいます。これも中小商人が高利貸しから借り入れて破産するのを防ぐ方策でした。
- 募役法は、農民たちを労働者として動員するのではなく、農民たちから労役を免除する免役銭を徴収し、それにより労働者を雇用するを実施し、農民負担を軽くすることを目指します。
- 保甲法とは経費の掛かる常備軍を縮小するため農閑期に民兵を訓練する法です。
- 保馬法は戦時に使う馬を農民に貸し出し、平時には農業用の馬として、戦時には軍馬として動員するものでした。
こうした王安石の新法に対し、大地主である佃戸出身の科挙官僚たちは大いに反発します。司馬光らは王安石の新法を廃止するよう迫りました。
王安石の新法を支持する新法党と廃止すべきだとする旧法党の対立は朝廷を二分します。宋が衰退する原因となってしまいました。ちなみに、最終的には新法党が負け、王安石の改革は廃止してしまします。王安石について興味がある人は「王安石―北宋の孤高の改革者 (世界史リブレット人)」がおすすめです。王安石が客観的に見られていてかなり面白いです。
靖康の変と金、南宋の成立
(徽宗:wikiより)
宋が新法党と旧法党の対立で混乱しているころ、北方を支配していた遼は中国東北地方に住む女真人との争いに追われ西へと敗走します。耶律大石が西遼を建国しました。女真族の完顔阿骨打は金を建国します。
宋は遼と金が争っていた時、金に味方して遼を滅ぼす手伝いをしました。ところが、金は宋が約束していた金品の支払いを渋っていたことに激怒します。宋の都である開封を攻め落としました。
この事件を靖康の変といいます。金は皇帝の欽宗と既に皇帝を引退していた徽宗をはるか北方に連れ去りました。これにより宋は滅亡します。
欽宗の弟は金による逮捕を免れ、南の杭州に逃げ延びます。そこで宋の復興を宣言し、欽宗の弟は皇帝となり高宗とよばれます。靖康の変の前の宋を北宋、以後の宋を南宋といいますね。
南宋の国内では金と戦って華北を取り戻すべきだとする岳飛ら交戦派と金と和平すべきだとする秦檜らの和平派が対立。岳飛を排除した秦檜ら和平派が政権を握り金と和平を結びました。これを紹興の和議といいます。これにより、金と南宋は淮河を国境線と定めます。
まとめ
趙匡胤が建国した北宋は文治主義を採用し殿試とよばれる皇帝面接をクリアした高級官僚中心の中央集権国家となりました。しかし、軍事力は弱体で周辺諸国に貢物を送ることで平和を保ちます。
靖康の変により金に北半分を奪われた宋は杭州に都を移し、南宋とよばれます。南宋は金と紹興の和議を結んで和平。以後、数十年にわたって両国の併存が続きます。以上お疲れさまでした。
次回は「【世界史B】宋代の社会・経済・文化【受験に役立つ中国史】」です。
前回は唐末について語りました。こちらもご覧ください。「【世界史B】唐の動揺と五代十国【受験に役立つ中国史】第6回」
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