清の衰退〜南京条約から太平天国の乱と洋務運動まで〜【世界史B】

中国の歴史【近代】唐、五代十国、宋、元まで
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こんにちは。今回は清の衰退について述べていきます。乾隆帝の死後、徐々に衰退の兆しを見せた清に対し、イギリスやフランスはアロー戦争をはじめ次々と清に勝利していきます。結果、清は継続的な外圧に見舞われるようになりました。

 

清の国内では太平天国の乱なども起き衰退に歯止めがかからなくなります。その後、洋務運動や変法運動など改革があるも日清戦争にも敗北した清は衰退の一途をたどりました。南京条約からアロー号事件、太平天国の乱など一気に語っていきます。

今回の記事のポイント・アヘン戦争に敗北した清朝は南京条約を結ばされた

・アロー戦争に敗北した清朝は天津条約、続いて北京条約を列強と結ばされた

・太平天国の乱は郷勇や常勝軍の助けでようやく鎮圧

・洋務運動で近代化を目指すが、日清戦争で敗北

・変法運動は保守派の抵抗により失敗

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清と英国の南京条約への流れ

(アヘン戦争:wikiより)

19世紀に入り、産業革命が進んだイギリスは植民地となったインドから綿花を安価に輸入。イギリス国内で大量の綿織物を生産し、世界中に販売していました。

 

イギリスが次の市場として狙ったのが清です。しかし、清はヨーロッパ人との貿易を広州1港に限定。公行が貿易を独占していました。イギリスは制限貿易を打破する機会を狙います。また、イギリスはインドでアヘンを栽培し中国に持ち込み利益を上げていました。

 

1839年、欽差大臣としてアヘンの取り締まりを行った林則徐はアヘンの吸飲者を処罰。アヘンを持ち込むイギリス商人にアヘンの引き渡しを要求しました。イギリス商人が拒むと、貿易停止やアヘンの没収という強硬手段に出ます。

 

イギリス議会では清に対する出兵が審議されます。グラッドストンらは派兵に強く反対しましたが、議会は派兵を承認。イギリス艦隊は清国へと向かいました。

1840年、イギリス艦隊は厦門、寧波を海上封鎖。南京に迫る勢いさえ見せます。清朝は当初の強硬策を放棄。林則徐を罷免して南京条約を結びました

 

南京条約は上海など5港の開港と香港島の割譲、公行の廃止による自由貿易、賠償金の支払い、領事裁判権の承認、協定関税制度など清国に不利な不平等条約でした。

太平天国の乱とアロー戦争

(太平天国の乱:wikiより)

アヘン戦争の敗北で清朝の権威は大きく揺らぎました。1851年、キリスト教系の拝上帝会を組織した洪秀全は清朝に対して反乱を起こします。洪秀全は太平天国を建国。1853年に南京を占領し天京と改め、都と定めました。

 

太平天国の主張は「滅満興漢」。満州人の王朝である清を滅ぼし、漢民族の国を再興するというものでした。清の軍隊である八旗と緑営には太平天国を鎮圧する力はなく、清朝は地方の有力者である郷勇を頼りました。

 

最も活躍した郷勇は曽国藩率いる湘軍と李鴻章率いる淮軍でした。しかし、郷勇の力を借りても清朝は太平天国をすぐに鎮圧できません。

 

1856年、太平天国の乱がまだ継続しているとき、イギリスやフランスはアロー号事件を口実に清朝と戦端を開きます。これがアロー戦争ですね。南京条約で得た権利をさらに拡大させようという目論見で始まった戦争でした。

 

1858年、清朝はイギリス・フランスに屈服し天津条約を結びます。ところが、清朝内の反対派が条約調印のため派遣されたイギリス使節に発砲。再び戦端が開かれます。結局、清朝は戦いに敗れ、北京条約の締結を余儀なくされます。

 

北京条約は南京など10港の開港、アヘン貿易の公認、外国公使の北京駐留、多額の賠償金、ロシアに沿海州を割譲するなど清朝にとってかなり厳しい内容となりました。

洋務運動と日清戦争

(日清戦争:wikiより)

アロー戦争に勝利した欧米列強は、清朝を倒そうとしている太平天国の存在を危険なものととらえます。強力な新政府が生まれるより、弱体な清朝を活かしておく方が欧米にとって都合がよかったからです。

 

欧米列強は米国人ウォードや英国人ゴードンが率いる常勝軍を太平天国鎮圧に差し向けました。その結果、1861年に太平天国は滅亡します。

 

1861年から1874年までの同治帝の時代、中国は比較的平穏な時代を迎えました。皇帝の名をとり同治の中興といいます。同治の中興のとき、漢人官僚の主導で近代化がすすめられました。この近代化運動を洋務運動といいます。

 

洋務運動の理念は中体西用でした。中体西用とは、中国の政治システムはそのまま変えず、技術を西洋から導入するという考え方のこと。そのため、中国の近代化は表面的なものにとどまりました。

 

1894年、朝鮮半島の支配権をめぐり日本と清が戦争状態に入りました。これが日清戦争です。日清戦争では日本軍が清朝の軍を圧倒。下関条約を結びます。日清戦争の敗北は洋務運動の限界を物語るものでした。

日清戦争に敗北した清朝の光緒帝は、明治維新のように根本から中国を変えなければならないと考えます。光緒帝は康有為ら公羊学者を登用し改革をはかりました。この運動を変法運動といいます。

 

しかし、反対する西太后らの保守派が戊戌の政変とよばれるクーデタを決行。改革派を追放し光緒帝を監禁します。

まとめ

乾隆帝の死後、衰退し始めた清朝はアヘン戦争、アロー戦争に敗北し欧米との自由貿易に応じざるを得なくなります。国内では太平天国の乱がおきます。清朝は郷勇や常勝軍などの力を借りてかろうじて鎮圧しました。

 

清朝は洋務運動を行い近代化を図りますが、日清戦争の敗北で洋務運動の限界が露呈。根本から改革するため変法運動を展開しますが、反対派のクーデタで失敗。清朝は根本的な改革ができないまま20世紀に突入します。

前回の話は「【世界史B】明・清の社会・経済・文化(受験に役立つ中国史)」です。

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