【世界史B】唐の動揺と五代十国【受験に役立つ中国史】第6回

こんにちは。今回は唐の動揺と五代十国時代についてお話をします。武韋の禍を治めた玄宗皇帝の前半の治世は開元の治と称えられました。しかし、治世後半は節度使が力をもち、安史の乱を招いてしまいます。

 

その後、唐は両税法などの税制改革などを行って体制立て直しを図りますが、うまくいきません。9世紀後半におきた黄巣の乱で致命的な打撃を受けた唐は907年に滅亡。その後、半世紀以上にわたって中国は五代十国時代とよばれる分裂時代に突入します。

今回の記事のポイント・均田制の崩壊により租庸調制や府兵制も機能しなくなった

・節度使の安禄山と部下の史思明が起こしたのが安史の乱。ウイグルの支援で鎮圧

・租庸調制に代わる新しい税法が両税法

・黄巣の乱で弱体化した唐は朱全忠に滅ぼされた

・朱全忠の後梁以後、華北で五代、それ以外に十国が成立した

・後晋が遼に割譲したのが燕雲十六州

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唐代の社会変化

(五代十国時代の武人)

隋から引き継がれ唐で実施された均田制は8世紀になると崩壊し始めます。経済的に没落した均田農民の土地を大貴族や官僚、寺院などが買い取り大地主が成長し始めたからです。

 

均田制が崩れると、均田農民を兵士として動員する府兵制や均田農民から税を取り立てる租庸調制も機能しなくなります

 

こうして、玄宗皇帝の時代には均田制の実施が困難になっていきました。唐は弱体化した軍事力を補うため、府兵制の継続を断念。専業の兵士を募集する募兵制に切り替えます。

 

国境地帯に配置された募兵集団の指揮官となったのが節度使でした。節度使は強い軍事力を背景に地方で勢力を拡大していきます。次第に中央政府の命令を聞かなくなっていきました。ちなみに、当時の唐の勢力地図はこんな感じでした。

安史の乱

(安禄山:wikiより)

開元の治と称えられた玄宗の政治は、治世後半に乱れを見せます。絶世の美女である楊貴妃を寵愛するあまり、玄宗が政治をおろそかにし始めたからだといわれますね。

 

玄宗の宮廷では楊貴妃の甥である楊国忠と玄宗の引き立てにより華北の3節度使を兼任した安禄山が影響力を競って争っていました。

 

S先生
S先生

太っていた安禄山は玄宗に「お前の腹には何が入っているのか」と問われ、「陛下への愛が詰まっています」みたいな問答があったそうです。

安禄山はソグド人の父と突厥人の母から生まれました。安禄山は楊貴妃に取り入ることで玄宗の信任を得、華北の3節度使を兼任し、強大な軍事力を手にします。

 

755年、宰相の楊国忠と対立した安禄山は部下の史思明とともに華北で挙兵します。契丹人や突厥人の騎兵を主力とする軍団で洛陽や長安を占領しました。下記の地図は安禄山が幽州から挙兵して翌年長安を攻め落とすまでの旅程を示しています。

(安史の乱の流れ:wikiより)

玄宗は蜀の地に落ち延びます。この逃避行の最中、玄宗の護衛兵が楊国忠と楊貴妃が国の政治を乱した原因として反乱を起こし、玄宗は両名を殺してしまいました。

 

唐王朝は安禄山の反乱を鎮圧するため、別の遊牧民であるウイグルに支援を要請します。ウイグル軍と唐の連合軍が安禄山の軍を打ち破り、ようやく反乱は治まりました。

 

ちなみに、この安史の乱の死者数は3600万人と言われていますが、20世紀の人口に換算すると4億2900万人に相当し、第二次世界大戦より人が死んだとハーバード大学のSteven Pinker教授は言っています。

 

Steven Pinker教授の安史の乱(An Lushan Revolt)について書かれた書籍は「The Better Angels of Our Nature」と言います。英文ですが、内容としてかなり面白いので是非読んでみてください。

唐の行き詰まりと黄巣の乱

(長安 唐の宮殿跡:wikiより)

安禄山の乱が平定されても、唐が衰退した根本原因がなくなったわけではありません。均田制は完全に機能しなくなっていました。そのため、貴族や官僚たちの私有地である荘園が全国に広がりを見せます。

 

租庸調制にかわる税制として780年に導入されたのが両税法でした。両税法は農民による土地私有を認め、土地の面積や生産量に応じて年2回、税を徴収するしくみです。両税法は明の時代に一条鞭法が導入されるまで、中国の基本税制となりました。

 

両税法の施行は国が土地を保有し農民に分配する均田制の放棄と荘園の公認を意味します。荘園は五代十国でも拡大し、新興地主が勃興する要因となりました。

 

安史の乱以後、地方の治安は悪化します。そのため、唐王朝は国境だけではなく国内各地に節度使を設置しました。強大化した節度使は藩鎮とよばれ、武人が地方政治の実権を握ります。

 

875年、イナゴの大量発生が原因となる飢饉が華北で発生します。大農民反乱を引き起こしました。反乱の指導者となったのは塩の密売商人である王仙芝黄巣です。王仙芝の戦死後、黄巣が反乱を指導しました。下記の地図は黄巣の乱の流れです。

(黄巣の乱の地図:wikiより)

黄巣の反乱軍は一時、都の長安を攻め落とすなどすさまじい勢いを見せました。しかし、884年に黄巣の乱は鎮圧されます。

五代十国時代

(朱全忠:wikiより)

黄巣の乱後も、唐はわずかに余命を保ちます。しかし、黄巣を裏切って唐に帰順した武将、朱全忠が唐の皇帝から帝位を禅譲させ、唐を滅ぼします。朱全忠が作った王朝は後梁とよばれました。

 

S先生
S先生
ちなみに入試では明の朱元璋を朱全忠と記載して間違いの選択肢にすることがよくあります。黄巣の乱は朱全忠で紅巾の乱を平定して明を作ったが朱元璋ということは覚えておきましょう。

 

907年の後梁の建国から979年の宋による中国統一までのおよそ70年間を五代十国時代といいます。五代とは華北に成立した五つの王朝のこと。十国は五代以外の国をさします。

(五代十国時代地図:コトバンクより)

具体的に、五代は後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五つの王朝です。十国はそれ以外の地域に成立した十の国をさします。

 

この時代、唐の貴族階級は社会的混乱に巻き込まれて没落しました。かわって成長したのが新興地主です。各地方を支配した政権は節度使が自立して建てた国であることが多く、五代十国は武断政治の時代だとも言えますね。

 

五代のうち、後晋は建国の際に北方遊牧民である契丹人の力を借りました。そのため、後晋は支援の見返りとして現在の北京周辺にあたる燕雲十六州を契丹人の国である遼に譲り渡します。このツケが後の宋代に回ってくることになります。今回の話はここまでとします。

 

唐代の話をもう少し詳しく知りたい方は「大唐帝国-中国の中世 (中公文庫プレミアム)」をご一読ください。

唐の動揺と五代十国のまとめ

均田制が崩壊し、律令による支配が揺らいだ唐では現実に即応するため、節度使を設置し国境の防備にあたらせました。

 

755年におきた安史の乱は唐の弱体化を内外に示すものとなります。唐王朝は国内治安を維持するため、中国各地に節度使を設置。やがて節度使は地方を支配する藩鎮へと成長します。

 

875年、黄巣の乱で大打撃を受けた唐は朱全忠によって国を奪われました。朱全忠の後梁にはじまる分裂した武人政権の時代を五代十国といいます。五代の一つである後晋は建国の支援と引き換えに、遼に燕雲十六州を譲渡。のちに、遼と宋の争いの原因となりました。お疲れ様でした。

 

次回は「【世界史B】宋と北方民族【受験に役立つ中国史】第7回」です。

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