室町幕府の誕生(南北朝時代)流れをわかりやすく解説【日本史B 第31回】

12世紀末から続く政局の不安定や飢饉などにより、有効な対策を講じられなかった鎌倉幕府は急速に求心力を失い、1333年に滅亡しました。その後、後醍醐天皇の「建武の新政」がありました。

 

しかし、建武の新政は、公家と武家から現実にあっていないという点で反発がありました。詳しくは前回の「建武の新政(後醍醐天皇と足利尊氏について解説)確認問題つき」を読んでください。

建武の新政(後醍醐天皇と足利尊氏について解説)確認問題つき【日本史B 第30回】
こんにちは。日本史Bの時間です。 前回で、鎌倉幕府の崩壊を見ていきました。そこで、後醍醐天皇が行った新たな政治である建武の新政について見ていきます。 建武の新政は年号も覚えておく必要があるので語呂合わせも用意しました。そして、今回は建武の新...

 

今回は、足利尊氏の権力を広げ、室町幕府の成立について話をします。最後に問題もついているので、ぜひやってみましょう。

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室町時代の始まり

(足利尊氏:wikiより)

早くも齟齬を見せ始めた建武の新政の渦中で、後醍醐天皇擁立に功のあった足利尊氏は、朝廷と一定の距離を置いていました。

 

1335年、北条時行ら北条残党が中先代の乱を東国で興すと、尊氏は後醍醐天皇の許可なく討伐軍を編成し、鎌倉へ向かったのです。

 

乱は平定されて鎌倉も回復されますが、尊氏はいっこうに京都へ戻る素振りを見せません。帰還命令にも従わず、そればかりか勝手に配下の武士たちに恩賞を与えたのです。

 

そこで後醍醐天皇は高氏を朝敵とし、臣下の新田義貞を討伐に向かわせました。しかし箱根・竹ノ下で新田軍が敗れたことにより、高氏が擁する大軍は京都目指して進軍を開始したのです。

 

高氏は京都にいた光厳上皇と密かに連絡を取り付けており、後醍醐天皇の対極にある持明院統を担ごうとしていました。そうすることで自らの行動の正当性を主張したわけです。

 

1336年正月、入京を果たした高氏は後醍醐天皇を比叡山へ追いやりますが、すぐさま天皇方の反撃に遭って撤退。遠く九州まで落ち延びざるを得ませんでした。

 

しかし多くの武士たちの支持を集めていた足利尊氏は、力を蓄えて再び京都奪還を図ります。5月に新田義貞・楠木正成らを湊川の戦いで破ると、翌月には京都を取り返すことに成功。やがて持明院統の光明天皇を擁立したのです。また征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開きました。

 

11月、尊氏は政治方針を記した「建武式目十七条」を定め、ここに名実ともに武家政権を樹立させたのです。いっぽう後醍醐天皇が政権を手放したことにより、建武の新政も消滅したのでした。

 

日本の歴史では、この時をもって「室町時代の始まり」とされています。

 

余談ですが、「室町」とは3代将軍足利義満が京都室町に「花の御所」を造営したことから付いた名称ですので、高氏が作った幕府は「室町幕府」とは呼べません。「足利幕府」と呼んだ方が正しいのです。

南北朝時代へ突入

(吉野山:wikiより)

高氏側といったん和議を結んでいた後醍醐天皇でしたが、12月に京都を脱出して吉野へ逃れ、独自の朝廷(南朝)を興しました。

 

光明天皇へ渡した三種の神器は実は偽物であり、自らが持っている神器こそ本物だと主張したのです。

 

こうして光明天皇(北朝)と後醍醐天皇(南朝)が互いに相争う時代を迎え、全国の武士たちも北朝方と南朝方に分かれて戦うこととなりました。これ以降60年近くに及んだ内乱期を「南北朝時代」と呼びます。

 

すでに室町時代はスタートしていますから、この2つの時代は重複し合っているわけです。

 

とはいえ北朝も一枚岩ではありませんでした。高氏と弟直義の関係が徐々に不和となっていったからです。

 

高氏が軍事指揮権を持ついっぽうで、忠義は政務全般を総攬しており、幕府はいわば二元政治体制で成り立っていました。

(足利家の家系図:wikiより)

必然的にどちらか一方を支持する武士層も生まれ、やがてそれは北朝内部の分裂へと発展していくのです。これを「観応の擾乱」と呼びます。

 

南朝方はそんな北朝方の混乱に付け入って反撃を繰り返し、南朝方へ降る武士たちも多くなっていきました。

 

しかし1352年に直義が死去し、のちに2代将軍となる義詮が北朝をまとめるようになると、南朝の勢力にも陰りが見えてきます。

 

南朝方は京都を奪還するものの、すぐさま義詮の反撃に遭って手放し、そしてまた勢いを盛り返して京都奪還を目論むということを繰り返しています。結果的に南朝方は京都で安定した政権を築けずに終わっているのです。

 

1358年、高氏が死去すると義詮が征夷大将軍に就任しました。相変わらず抗争は絶えなかったものの、義詮はよく幕府内をまとめ上げ、やがて北朝による安定した政権基盤を確立します。

 

いっぽう南朝方は徐々に衰退の色を深めていき、政局に及ぼす影響力も失われていきました。やがて3代将軍義満の時代となる1392年「明徳の和約」のよって実質的な南北朝合一が果たされるのです。

確認問題

1.京都を脱出した後醍醐天皇が再び拠点を持ったのはどこか?

吉野

 

2.南北朝時代の皇室の系統はそれぞれ何と呼ばれるか?

持明院統と大覚寺統

3.空欄aには、この落書が成立した時期に京で政権を掌握した人物の発給文書を示す語が入る。その語を漢字二字で記せ。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(a     )

綸旨

まとめ

以上、室町幕府の成立について簡単にまとめてみました。流れをきちんと理解するようにしましょう。

 

前回の記事は「建武の新政(後醍醐天皇と足利尊氏について解説)確認問題つき」です。

建武の新政(後醍醐天皇と足利尊氏について解説)確認問題つき【日本史B 第30回】
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