今回は、推古天皇とその摂政である聖徳太子の時代を中心に取り上げます。
古墳時代の末期は別名、飛鳥時代とよばれます。
飛鳥時代を代表する天皇が推古天皇でした。32代天皇である崇峻天皇が蘇我馬子の手の者によって暗殺され、推古天皇は日本初女性の天皇として即位しました。
推古天皇は最大の豪族である大臣蘇我馬子とバランスをとるため、皇族の聖徳太子(厩戸王)を天皇の補佐役というか、代理といっても良い摂政に任命しました。
摂政となった聖徳太子は、蘇我馬子と協調しつつ、天皇中心の国づくりをめざします。では、詳しくみていきましょう。
- 推古天皇は敏達天皇の皇后で、崇峻天皇の暗殺後に蘇我氏の推挙により即位
- 蘇我氏と物部氏の仏教をめぐる争いを崇仏論争という
- 推古天皇は聖徳太子(厩戸王)を摂政に任命
- 聖徳太子は冠位十二階と憲法十七条を制定し国内制度を整備
- 聖徳太子は小野妹子を遣隋使として派遣
日本初の女性天皇となった推古天皇の即位
(小墾田宮見取図:wikiより)
推古天皇は欽明天皇の娘として生まれました。天皇になる前の名前は額田部皇女です。美しさと気品を兼ね備えた女性だったといいます。
571年、額田部皇女は敏達天皇の妃となり576年には皇后となります。敏達天皇の死後、聖徳太子の父親である用明天皇が即位しますが、わずか2年で死去しました。
587年、次の天皇に穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を推す蘇我馬子が戦争となりました。この戦争で聖徳太子は蘇我馬子に味方します。
物部守屋と蘇我馬子は、次の天皇だけではなく、仏教を排除するか受け入れるかでも激しく対立していました(崇仏論争)。仏教を信仰する聖徳太子が、仏教け受入派の蘇我馬子に味方したのは当然でしょう。
戦いに勝利した泊瀬部皇子は天皇に即位しました(崇峻天皇)。しかし、崇峻天皇は蘇我馬子と対立。馬子の差し金で崇峻天皇は暗殺されてしまいました。
593年、蘇我馬子に即位を請われた額田部皇女が天皇に即位し、日本初の女性天皇となりました(推古天皇)。
(推古天皇)
摂政に任じられ、蘇我氏と協調した聖徳太子の政治
(法隆寺夢殿:wikiより)
推古天皇は、甥にあたる聖徳太子を摂政に任じ、自分の代理のような立場に置きました。
(聖徳太子::wikiより)
物部氏を倒し、最強の豪族となっていた蘇我氏とバランスをとるため、聖徳太子を皇族代表のような位置づけにしたのかもしれません。
推古天皇は皇族、蘇我氏、他の諸豪族のバランスを巧みに取ることで政治を安定化します。実際の政治は聖徳太子が前面に出て行いました。
聖徳太子は仏教中心の政治をおこないます。594年に出した仏教興隆の詔では、仏・法・僧の三宝を尊重することを表明しました。
聖徳太子は国内制度の整備に着手します。603年、朝廷に仕える役人に「官位」を与える冠位十二階の制度を制定しました。
これまでの氏姓制度では一族ごとに「姓」を与えていたのに倒し、冠位十二階では個人に官位が与えられるのが大きな違いですね。
604年、朝廷に仕える役人の心構えとして憲法十七条を制定します。天皇中心の国家をつくる下準備を着々と進めます。
607年、小野妹子を大使とする遣隋使を派遣しました。
小野妹子は隋の皇帝煬帝に「日出づる国の天子、書を日没する処の天子に致す。」の書き出しで始まる国書を提出します。
煬帝はとても怒ったそうですが、外交関係を考え国書は受け取りました。
まとめ
推古天皇が君臨した古墳時代後半を、特に飛鳥時代といいます。推古天皇は聖徳太子を摂政に任命し、蘇我氏とバランスを取りながら王権を維持しました。
聖徳太子は天皇中心の国を作るため、冠位十二階や十七条の憲法を制定し国内制度を整備。
遣隋使を派遣して、大陸の進んだ文化を積極的に取り入れます。同時に、仏教興隆の詔をだして、国による仏教保護政策を打ち出しました。
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次回の記事「法隆寺に代表される飛鳥文化の特徴や代表的仏像について(伽藍配置も解説)【日本史B 第8回】」
前回の記事「古墳時代の国家形成や氏族制度について【日本史B 第6回】」
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