古墳時代の国家形成や氏族制度について【日本史B 第6回】 

こんにちは。今回は、古墳時代の国家形成や氏姓制度などを中心にまとめます。

 

古墳時代、現在の天皇あたる人は、大王(おおきみ)と呼ばれていました。

 

大王は、氏姓制度に基づき豪族たちに職を与えることで政治をコントロールします。

 

古墳時代の主な出来事年表でふりかえりつつ、古墳時代の外交、渡来人、政治の仕組みなどについてまとめました。

  • ヤマト政権は大王と豪族たちの連合政権
  • 日本は加耶を通じて朝鮮半島とつながる
  • 渡来人たちは儒教・仏教をはじめ、様々な知識や技術を日本にもたらした
  • 雄略天皇の存在を示す江田船山古墳鉄刀や稲荷山古墳鉄剣は頻出
  • 氏姓制度は、ハイレベル私大の場合、詳細に覚える必要あり
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年表で確認する古墳時代の出来事

引用:自作した年表

年表で確認してみると、倭王武が5世紀の後半、大伴金村と継体天皇が6世紀前半、崇仏論争が6世紀中ごろであることがわかります。

 

古墳時代のヤマト政権は、豪族たちの連合政権だったといわれます。

 

S先生
S先生
大王が中国の皇帝たちのように強い力を持っていなかったことに注意が必要よ。

 

古墳時代後期の崇仏論争に勝利した蘇我馬子は、6世紀末から始まる飛鳥時代においても主導権を握り続け、崇峻天皇のように意に沿わない天皇を暗殺するほどの力をもちました。

古墳時代の国家形成に大きな影響を与えた東アジア諸国との交渉

(好太王碑文:wikiより)

316年、中国を治めていた西晋が匈奴によって滅ぼされると、中国北部には5胡とよばれる異民族が侵入し、自分たちの国を建てました。4世紀から5世紀前半の混乱時代を五胡十六国時代といいます。

 

中国が弱くなったことで、朝鮮半島には高句麗百済新羅の3国が成立しました。三国に属さない朝鮮半島南部の地域である加耶(伽耶・加羅とも)には中小の国家がひしめいていました。

日本書紀では加耶を任那(みまな)と記し、日本と密接な関係を持っていたことが書かれます。

 

4世紀から5世紀にかけて、倭国は高句麗と対立関係にありました。中国吉林省に残る好太王碑文(高句麗の好太王の事績を記した石碑)には、高句麗が倭国と戦い勝利したと書かれています。

 

5世紀に入ると、中国は北半分を支配する北朝と、南半分を支配する南朝に分かれる南北朝時代となりました。日本は、朝鮮半島での立場を有利にするため、南朝に接近倭の五王たちが南朝に使者を派遣したことが記録に残っています。

 

中でも、倭王武は雄略天皇(ワカタケルのおおきみ)のことだと考えらえられます。雄略天皇の名が記された鉄剣・鉄刀が埼玉県稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳から出土しました。雄略天皇の影響力が関東から九州に及んでいることがわかりますね。

 

渡来人が古墳時代の日本にもたらした大陸文化や漢字

(伝 王仁の墓より)

古墳時代の中期にあたる5世紀から、古墳時代の後期にあたる6~7世紀にかけて、大陸や朝鮮半島から渡来人とよばれる人々が来日しました。

 

渡来人たちは中国や朝鮮半島の技術を日本に伝える役目を果たします。王仁阿地使主、弓月君などは渡来人たちの代表としてヤマト政権に仕えたのでしょう。

 

5世紀の渡来人たちは手に職を持つ技術者集団でした。韓鍛治部、鞍作部、陶作部、錦織部、史部など、技術者ごとにまとめられ一族とされました。

 

6世紀以降は、高句麗からの渡来人も見受けられます。彼らが伝えた儒教仏教、暦、製紙法などは次の時代の文化である飛鳥文化の土台となりました。

 

古墳時代の大王を支えた氏姓(しせい・うじかばね)制度とは

ヤマト政権は、大王(おおきみ)を中心とした政権です。といっても、大王が絶対的な力を持っていたのではなく、有力豪族と手を組んでともに政治を行っていました。そのため、ヤマト政権は大王と豪族たちの連合政権だといえるでしょう。

豪族たちは血縁関係などをもとに氏とよばれる単位にまとめられ、大王は氏(うじ)ごとに仕事である姓(かばね)をあたえました。この制度を氏姓制度といいます。

 

中央の有力豪族は臣(おみ)や連(むらじ)の姓を与えられ、国政を担当しました。なかでも、大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)は大王に迫る力を持ちます。代表的な大臣は蘇我氏、大連は物部氏や大伴氏ですね。

 

地方を掌握していたのは国造(くにのみやつこ)でした。6世紀前半にヤマト政権に反旗を翻した磐井は、九州北部の国造です。

 

農民や漁民、技術民など一般人たちは部民(べのたみ)とされました。大王家の直属民は名代(なしろ)・子代(こしろ)伴造(とものみやつこ)とよばれた専門職を率いる豪族のもとに品部(しなべ)とよばれた技術者集団が配属されます。

 

ヤマト政権の直轄領で田畑を交錯した者たちは田部(たべ)、豪族たちの私有民は部曲(かきべ)とよばれます。

 

名前が煩雑なので、図表を利用しながらしっかりと整理しましょう。

 

まとめ

 

古墳時代の日本(倭国)は、古代国家を作り上げるための国家形成の時期でした。

 

ヤマト政権は大王を中心とする豪族たちの連合政権です。その根本は豪族を血族単位でまとめる氏姓制度です。

 

古墳時代は出来事と出来事の間が長く、全体の流れをつかみにくいところがあります。

 

年表を利用し、全体把握をすることが古墳時代攻略の鍵となるでしょう。

 

最後に日本史を全体的にわかりやすく理解するためには「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」がおすすめです。難関大レベルに出題されるレベルの深さはないですが、全体を理解し流れを頭に叩き込むにはおすすめの一冊です。ぜひとも一読をおすすめします。

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