藤原氏による安和の変に至るまでの他氏排斥事件について一挙に解説【日本史B 第17回】

9世紀初め、藤原冬嗣は嵯峨天皇を補佐して薬子の変を鎮圧しました。

 

以来、冬嗣の子孫である藤原北家は、幾度もの事件で他氏を排斥し天皇家をもしのぐ力を手にします。

 

藤原氏はいったいどのようにして他氏排斥を行い、権力を握ったのでしょうか。今回は藤原氏が行った他氏排斥である薬子の変、承和の変、応天門の変、阿衡の紛議、昌泰の変、安和の変について一挙に解説します。

・薬子の変で藤原冬嗣が活躍し、藤原北家台頭のきっかけを作った
・承和の変の後、伴健岑と橘逸勢が追放され、藤原良房は権力基盤を固めた
・応天門の変の結果、藤原良房は大納言伴善男の排除に成功した
・阿衡の紛議で、藤原基経は宇多天皇との政治闘争に勝利し、関白の職務を確立した
・昌泰の変で、藤原時平が菅原道真を失脚させた
・安和の変で、源高明が失脚し藤原氏が他氏排斥を完成させた
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藤原氏による他氏排斥事件とは?

(朝堂院:wikiより)

画像引用:9世紀初めから10世紀中ごろにかけて、藤原北家は様々な政治的な事件を利用して他氏族を排斥していきました。

 

薬子の変では、藤原式家の仲成や薬子を排除し、承和の変では伴健岑と橘逸勢を、応天門の変では伴善男を排除します。また、阿衡の紛議では宇多天皇の政治的闘争に勝利して関白の職務を確立しました。

 

宇多天皇は菅原道真らを登用し藤原北家に対抗しようとしますが、醍醐天皇は藤原時平と結び昌泰の変で菅原道真を太宰府に追放してしまいます。

 

その後、969年の安和の変で唯一対抗できる力を持っていた源氏の源高明を失脚させることで、藤原氏による他氏排斥が完成します。

薬子の変(810年)

(藤原冬嗣:wikiより)

奈良時代後期から平安時代初期にかけて、藤原北家は勢力が振るいませんでした。北家台頭のきっかけを作ったのが藤原冬嗣です。

 

平安時代初期に平城上皇と嵯峨天皇が対立しました。この時、嵯峨天皇の側近として蔵人頭に任じられて活躍したのが北家の藤原冬嗣です。

 

冬嗣は嵯峨天皇の秘書役として活動し、平城上皇を擁立して権力を握ろうとしていた藤原仲成を射殺し、藤原薬子を自殺に追い込みました(薬子の変)。これにより、藤原氏の中で北家が最も力を持つようになります。

承和の変(842年)

(藤原良房:wikiより)

皇が重い病にかかると、皇太子恒貞親王の側近である伴健岑は橘逸勢と謀って恒貞親王を政争に巻き込まれないよう東国に逃がそうとします。

 

これを知った皇太后の橘嘉智子は中納言だった藤原良房(冬嗣の子)に相談しました。良房は仁明天皇に報告します。これを聞いた仁明天皇は伴健岑と橘逸勢を捕え流罪とします。恒貞親王も責任をとらされ、皇太子を廃されました。

 

新たに皇太子となったのは藤原良房の妹である順子が生んだ道康親王です。

 

事件後、良房は昇進を重ね、ついには臣下で初の摂政(人臣摂政)となりました。同時に、古代以来の名族である伴氏と橘氏は大きな打撃を受けました。

応天門の変(866年)

(伴大納言絵巻:wikiより)

応天門の変は866年に起きた政変です。866年4月28日、宮中の門の一つである応天門が何者かに放火され炎上しました。大納言伴善男は仲が悪かった左大臣の源信が応天門に放火したと告発しました。

 

太政大臣藤原良房が源信を弁護したため、源信は無実とされます。8月4日になると、今度は伴善男父子と紀豊城が応天門放火の犯人として逮捕されました。

 

結局、朝廷は伴善男が応天門放火の犯人であると断定し、関係者を流罪としました。応天門の変の結果、伴氏と紀氏が排除され藤原北家の力が増します。

阿衡の紛議(887年)

(藤原基経:wikiより)

阿衡の紛議は藤原基経(良房の養子)と宇多天皇の政治的な争いです。宇多天皇が即位した時、基経を関白に任命して政務を一任するという内容の詔書を下しました。

 

ところが、勅書の中にあった「阿衡に任ず」という文言が問題となります。文章博士の藤原左世が「阿衡は、位は高いが職掌がない」と基経に告げたのです。これを聞いた基経は「職掌がないなら政務は行わない」として仕事を放棄してしまいます。

 

困り果てた宇多天皇は詔書を書いた橘広相を罷免し、勅書の非を認めます。この事件で、宇多天皇は基経に屈しました。また、関白は名誉職ではなく実権を伴う職であることを周囲に示しました。

昌泰の変(901年)

(菅原道真:wikiより)

昌泰の変は菅原道真が左大臣藤原時平の讒言により太宰府に左遷された事件です。阿衡の紛議で基経に屈した宇多天皇は学者の菅原道真をはじめとする優秀な人物を登用し寛平の治とよばれる政治改革をおこないました。

 

宇多天皇が位を醍醐天皇に譲った後も、菅原道真は昇進を続けます。ついには、学者としてはまず到達しない右大臣になりました。

 

菅原道真らを登用して藤原氏と対決した宇多上皇に対し、醍醐天皇は藤原時平と連携して政治の安定を図ろうとしました。その結果、醍醐天皇と菅原道真のあいだに溝ができます。

 

あるとき、道真が娘婿の斉世親王を皇太子にしようとしているという風説が流れます。これが一つのきっかけとなり、醍醐天皇は菅原道真を右大臣から解任し大宰府に流刑としました。

藤原氏は新たに台頭した菅原道真の排除に成功しました。

安和の変(969年)

(大宰府政庁跡:wikiより)

昌泰の変以後、藤原氏の対抗できるのは天皇家の血を引く源氏ぐらいしかいなくなりました。967年に村上天皇が死去すると、冷泉天皇が即位します。

 

冷泉天皇の時代、関白は藤原実頼、左大臣は源高明、右大臣は藤原師尹でした。冷泉天皇が病気がちで、子供もいなかったことから皇位継承問題が発生します。

 

冷泉天皇の二人の弟のうち、為平親王は源高明の娘を妻としていました。このため、藤原氏は為平親王ではなく、守平親王を皇太子に推しました。

 

969年、橘繁延や源連が謀反の疑いで逮捕されました。これに、左大臣源高明が関係していたとして太宰府への左遷が決定します。源高明が実際に関与していたかは不明ですが、源氏は朝廷での力を失い、藤原氏による権力独占が確立します。

まとめ

平安時代の前半、藤原氏は政治的な事件を利用して他氏を排斥しました。薬子の変では藤原式家を失脚させ、承和の変と応天門の変では古代以来の名族である伴氏や橘氏、紀氏の勢力を削ぎます。

 

阿衡の紛議では宇多天皇をも屈服させ、藤原氏の力と関白職の役割を明確にしました。宇多天皇は菅原道真らを登用して藤原氏に対抗しようとしますが、藤原時平は醍醐天皇と結び、昌泰の変で菅原道真を排除します。

 

969年におきた安和の変では、藤原氏の対抗できる唯一の氏族だった源氏の源高明を失脚させました。藤原氏によると他氏排斥は安和の変で完結し、それ以後は藤原北家内部の権力闘争に明け暮れます。

 

前回の記事は「密教文化が花開いた弘仁・貞観文化【日本史B 第16回】」です。

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