国風文化について解説!【日本史B 第18回】

原始・古代

遣唐使廃止後に日本で栄えた貴族文化を国風文化といいます。

 

このころ、日本の政治は藤原氏が摂政・関白として天皇の代わりに政治を行う摂関政治の時代でした。そのため、国風文化は藤原文化とも言います。

 

国風文化の特徴は「かな文字」に代表される日本独自の文化がはじまったことです。今回は、国風文化の特徴をかな文字、建築、宗教、文学、絵画・書道などの分野に分けて解説します。

・日本で生み出されたかな文字は女流文学者を数多く生み出した
・平安時代を代表する寝殿造や阿弥陀堂建築などが確立した
・本地垂迹説が生み出され神仏習合が進んだ
・末法思想とともに浄土教が流行した
・物語文学や日記・随筆が多数書かれた
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国風文化の特徴

(高野山聖衆来迎図:wikiより)

国風文化最大の特徴はかな文字の使用です。日本語の音を直接書くことができるかな文字の発明により、国文学が発達しました。文化の担い手として女性が活躍するのも国風文化の大きな特徴です

 

建築では貴族の住宅建築として寝殿造が流行します。また、浄土教の流行に伴い浄土教芸術が発達しました。

 

文学面では、詩歌だけではなく物語文学や日記・随筆の傑作が生みだされます。絵画・書道の分野では聖衆来迎図や日本風の書体である和様がはやり、三蹟とよばれる和様の名手が登場しました。

かな文字の発達について

かな文字が生み出される前、貴族の基礎教養は漢字・漢文でした。文章経国思想の文章は漢文のことであり、男性にとって漢字・漢文は必須の教養です。漢字を「真名(正式な文字)」としたのもその表れです。

 

国風文化期に登場した「かな文字」は、奈良時代に使われていた「万葉仮名」を崩すことで出来上がった日本独自の文字です。

 

「万葉仮名」は、漢字の音・訓を意味に関係なく用いていました。音は日本語でも、文字は漢字のままだったわけです。

 

「かな文字」は宮廷につかえる女官たちや女官たちの主である后妃たちが用います。彼女たちは「かな文字」を使用して国文学の担い手となりました。

国風文化の建築について

(醍醐寺五重塔:wikiより)

平安時代に出来上がった貴族の邸宅の建築様式を寝殿造といいます。寝殿とよばれる建物を中心に、複数の対屋を置き、それらを渡り廊下でつなぐ大規模な邸宅で、ほとんど間仕切りがないのが特徴です。

 

屋根は高級木材である檜の樹皮を使った檜皮葺き(ひわだぶき)で、屋根の形は入母屋造りという高い格式のものが用いられました。

 

代表的な寝殿造りの建物として、平等院鳳凰堂中尊寺金色堂に用いられる阿弥陀堂建築があります。

(平等院鳳凰堂:wikiより)

また、醍醐寺五重塔や法界寺阿弥陀堂も国風文化期を代表する建築といってよいでしょう。醍醐寺は醍醐天皇の発願によって建てられた寺院で、五重塔は951年にたてられました。

 

法界寺阿弥陀堂は1051年ころにたてられましたが、1200年に火災で焼失してしまいます。その後、正確な年代は不明ながら現存する建物が再建されました。

宗教について

平安初期には天台宗や真言宗が流行し、加持祈祷などを行う密教が盛んになりました。平安時代中期にあたる国風文化期になると、密教は貴族たちの生活に深くかかわるようになります。病気平癒の祈祷なども日常的に行われていました。

 

神と仏を同一のものとみなす神仏習合思想も貴族たちに受け入れられ定着しました。国風文化期になると仏が日本の人々を救うため、日本の神仏の形になって表れたとする本地垂迹説が唱えられます。
例えば、大日如来が天照大神の姿になって表れたというのも本地垂迹の考え方に拠ります。

 

また、政治的に非業の死を遂げた人の霊(御霊)が天災や病気を世の中にもたらすという考え方が定着したのも国風文化の時代です。

 

人々は、天災や疫病から逃れるため御霊の怒りを鎮めようと祭礼を行いました。この祭礼を御霊会(ごりょうえ)といいます。北野天満宮や祇園社(八坂神社)で行われた御霊会が有名です。御霊会から発展したのが現在も続く祇園祭です。

 

国風文化期の人々に大きな影響を与えたのが末法思想という考え方でした。末法思想とは、釈迦が亡くなってから2000年を経ると、釈迦の教えが衰える「末法」の世になるという考え方のことです。日本では1052年が末法の始まりだとされました。

 

末法思想と結びつき人々の間に広まったのが浄土の教え(浄土教)でした。浄土教とは、阿弥陀仏を信仰することで来世は阿弥陀仏の住む極楽浄土に往生できるという教えです。

 

10世紀半ばに現れた空也は京都の市中で浄土教を説いたため、市聖とよばれます。985年になると源信が『往生要集』を著し、念仏を唱えることで往生すると説きます。

 

このころ、極楽往生できた人の伝記とされる「往生伝」が良く書かれるようになりました。もっとも有名なのは慶滋保胤(よししげのやすたね)が著した『日本往生極楽記』です。

文学について

「かな文字」の発達は数多くの文学作品を生み出しました。詩歌の分野では醍醐天皇の命令でつくられた初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が有名です。編者は当代一流の歌人でもあった紀貫之でした。

 

物語文学としては、かぐや姫を主人公とする『竹取物語』、在原業平を主人公とする歌物語の『伊勢物語』、紫式部が書いた光源氏の一代記である『源氏物語』などがあります。これらの物語は平安末期から鎌倉初期に書かれる『今昔物語』などの説話文学にも影響を与えました。

 

日記・随筆の代表は紀貫之が書いた『土佐日記』や清少納言の『枕草子』、藤原道綱の母の『蜻蛉日記』、紫式部の『紫式部日記』、藤原道長の『御堂関白記』、藤原実資の『小右記』、菅原孝標の娘の『更級日記』などがあります。

絵画書道について

浄土教の流行とともに数多く描かれたのが『聖衆来迎図』です。阿弥陀如来が亡くなった人を極楽に往生させる様子を描いた絵で、浄土の教えの象徴となりました。

 

また、仏像彫刻の分野では定朝が現れ、寄木造の手法を完成させます。仏像の各部分を仏師が分担して作り、最後の段階で合体させる寄木造の確立により、仏像の大量生産が可能となりました。

 

書道の分野では和風の書体である和様が流行します。和様の名手である小野道風・藤原佐理・藤原行成は三蹟と呼ばれました。

まとめ

国風文化は遣唐使廃止後に生まれた日本独自の貴族文化です。国風文化最大の特徴はかな文字を生み出したことでした。これにより、物語文学や日記・随筆の傑作が生みだされました。

 

かな文字の登場は女性が本格的に文学作品の分野で活躍するきっかけとなります。紫式部や清少納言をはじめ、多くの女流文学者が生まれました。

 

宗教面では末法思想と浄土教の流行が特徴的です。聖衆来迎図は阿弥陀仏による極楽往生を目に見える形にします。浄土教は空也の布教や源信の『往生要集』執筆により貴族たちに受け入れられました。

 

前回の記事は「藤原氏による安和の変に至るまでの他氏排斥事件について一挙に解説【日本史B 第17回】」です。

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