イギリスのインド支配とインド大反乱(シパーヒーの乱)【世界史B】受験に役立つインド史(第7回)

みなさん、こんにちは。【世界史B】受験に役立つインド史シリーズをはじめます。今回はイギリスのインド支配についてです。イギリスがザミンダーリー制を始め様々な制度のもとにイギリスという他国にインドがどう侵略されていくのか、語っていきます。

 

1757年のプラッシーの戦いに勝利しフランスを排除したイギリスは本格的にインドの植民地化を進めました。この点については前回の「【世界史B】受験に役立つインドの歴史 (ヨーロッパ人たちのインド進出)」に詳しく記載してあります。

 

イギリスはインド在来の勢力を分割統治することで巧妙なインド支配をおこないます。インド大反乱(シパーヒーの乱)をきっかけにイギリスはムガル帝国を滅ぼし、直轄領の英領インド帝国の樹立を宣言しました。

 

今回の記事のポイント・イギリスはインド産綿花を利用し、安価な綿織物を輸出。インドの綿織物産業は潰滅

・東インド会社はザミンダーリー制とライヤットワーリー制度でインド人から地税を徴収

・マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争に勝利しイギリスはインド全土を支配

・1857年のインド大反乱(シパーヒーの乱)はイギリスによって鎮圧されムガル帝国が滅亡

・1877年、英領インド帝国が成立しインドは大英帝国の原料供給地、市場とされた

イギリスの産業革命とインド

(綿花:wikiより)

イギリスがプラッシーの戦いでフランスに勝利したころ、イギリスは産業革命が始まったころでした。イギリスはインドから高品質の綿布を輸入し諸外国に販売することで利益を上げます。この時代については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(イギリスの自由主義改革)【近現代編その2】」の記事が詳しく書かれていますので読んでください。

 

綿工業を中心に産業革命が進むと、インドから綿布ではなく原料の綿花を輸入するようになります。イギリス本国で作った安価な綿織物を、インドを含む世界中に販売します。イギリスは、原料のみを仕入れて材料を高く買わせることでより大きな利益を得るようになりました。

 

その一方、インドでは綿布の生産に関わっていた人々が打撃を受け、廃業に追い込まれます。インドはイギリスの安価な原料供給地とされ、インドの富はイギリスに吸収されるようになりました。

 

東インド会社のインド支配

(ウィリアム要塞:wikiより)

1765年、圧倒的な軍事力を背景にイギリス東インド会社はベンガル地方やその周辺地域の地税徴収権と司法、行政権(ディーワーニー)を獲得します。これにより、東インド会社は貿易会社からインドを植民地として支配する機関へと変化します。

 

東インド会社はインド統治の財源を得るため、ベンガル州ではザミンダーリー制を実施し、地主から税を徴収する仕組みを作ります。ザミンダールとはインドで地主のことで、ザミーンが土地、ダールが所有者を意味しました。イギリスの東インド会社は、インドを支配するに当たり、ザミンダールを近代的な土地所有者と扱い、かれらを地租の徴税請負人と位置づけました。

 

また、デカン高原以南ではライヤットワーリー制を実施しました。ライヤットとは農民のことで、ライヤットワーリー制度は東インド会社がインド人の農民から直接税を取り立てるしくみをさします。

 

東インド会社の税システムについて、用語の整理と行われた場所について地図を記載します。参考にしてみてください。

徴税の名前内容場所
ザミンダーリー制地主(ザミン)に税金を取らせた。ベンガル州
ライヤットワーリー制東インド会社が直接徴税したデカン高原以南

(インドの税制)

1813年には東インド会社のインド貿易独占権が廃止されます。1833年には東インド会社は対中国貿易独占権を廃止され、東インド会社は完全にインド統治機関となりました。

イギリスとインド勢力の戦い

(第二次マラーター戦争:wikiより)

プラッシーの戦いの後、ベンガル地方の支配権を手に入れたイギリスはインド在来の勢力と戦いつつ、インドの植民地化をすすめます。1767年から4度にわたって戦われたマイソール戦争に勝利したイギリスは南インドの支配権を獲得します。

 

また、1775年から3度にわたったマラーター戦争ではデカン高原の支配権を確立しました。これらの戦争で獲得した地域では東インド会社が直接徴税するライヤットワーリー制度が実施されます。

 

1845年から2度行われたシク戦争は、西北インドのパンジャーブ地方に信者が多いシク教徒との戦争です。シク教については「【世界史B】受験に役立つインドの歴史(ムガル帝国)」をみてみましょう。

 

そして、シク戦争にも勝利したイギリスはインドのほぼ全域を支配することになります。ムガル帝国はデリー周辺を支配する一地方政権に転落しました。

(イギリスとインド勢力の戦い)

イギリスはインド各地の重要拠点を直接支配する一方、その他の地域は藩王国として自治権を与えます。イギリスは各藩王国の待遇に格差を設け、連携して抵抗することを防ぎました。こうした統治を分割統治といいます。

インド大反乱(シパーヒーの乱)について

(インド大反乱:wikiより)

東インド会社はインド支配をすすめるため、インド人傭兵を雇っていました。彼らのことをシパーヒー(別名:セポイ)といいます。最大時には20万ものシパーヒー(セポイ)がいました。

 

そして、新式銃の装備に牛や豚の油が使用されることを知ったシパーヒーが激しく反発します。イスラーム教徒にとって豚は忌むべきものであり、ヒンドゥー教徒にとって牛は神聖なものでどちらにとっても容認できない装備だったからでした。

 

この点は、明らかにイギリスの失点だったと思います。支配とは相手の尊厳を損なうことなく自身の利益を最大化にすることであり、相手にとって大事な「想い」を傷つけることは大きな反発をかいます。

 

1857年、東インド会社の傭兵であるシパーヒーが反乱を起こします。ちょうどプラッシーの戦い(1757年)から100年後の出来事です。これを「シパーヒーの乱」「セポイの乱」「インド大反乱」など呼び方が多岐に渡っています。最近では、反乱に参加した身分がシパーヒーに限らなかったことからインド大反乱と呼ばれることが多いです。

 

そして、反乱の火の手はインド全土に広がります。反乱軍はデリーに進撃し、名目的存在となっていたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を担ぎ出しました

 

また、反乱にはイギリスに圧迫され続けていた藩王国も加わります。インド西部の小さな藩王国の妃だったラクシュミー=バーイーは自ら反乱軍の先頭に立って戦い、反乱軍の指揮を上げました。ちなみにラクシュミー=バーイーは「インドのジャンヌ=ダルク」と呼ばれたりします。

 

イギリスは中国やイランに展開していた兵をインドに集中します。近代的装備で武装した精鋭部隊を投入して反乱鎮圧を図ります。また、反乱が進展するにつれ、反乱軍の内部の意見対立が表面化します。ムガル皇帝の影響力が低かったのも原因でした。こうした中、イギリスの反撃の前に反乱軍は敗れ去ります

 

イギリス軍は反乱軍を撃破しデリーに入城します。ムガル皇帝を捕らえてビルマに流刑としムガル帝国を滅ぼしました。

各地の反乱はその後も続きますが、1859年までにほとんど鎮圧されインド大反乱は終息しました。

英領インド帝国の成立

(ディズレーリとヴィクトリア:wikiより)

インド大反乱の勃発は、東インド会社によるインド支配の限界を示していました。イギリスは東インド会社を解散します

 

イギリスはインド総督を任命し、官僚や軍隊を本国から派遣する直接統治に切り替え、インドの統治を強固なものにしようとしました

 

1877年、保守党のディズレーリはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる英領インド帝国の成立を宣言します。インドは大英帝国の最重要植民地と位置づけられ、綿花や茶、アヘンなどの商品作物を栽培する原料供給地とされました。ちなみに、この年は日本では西郷隆盛が反乱をおこし西南戦争がありました。

 

それでは最後に当時の世界の状況について簡単に地図にまとめました。みなさんの理解の参考にしてくださいね。

まとめ

プラッシーの戦いに勝利したイギリスは、インドの分裂状態に乗じてインド人勢力を各個撃破しインドを植民地化しました。

 

インド人勢力は1857年にインド大反乱を起こしイギリス支配に抵抗しますが失敗。イギリスは東インド会社の間接統治を止め、インド総督による直接統治に切り替えます。

 

1877年にヴィクトリア女王を君主とする英領インド帝国が成立することで、インドは大英帝国の植民地として原料供給と市場の役割を与えられます。イギリスがインドの富を収奪する仕組みが出来上がったといってよいでしょう。

次回はインドがイギリスの支配をどうやって脱するかについて語ります。「【世界史B】受験に役立つインド史(インドの独立運動)」です。

前回の記事「【世界史B】受験に役立つインドの歴史 (ヨーロッパ人たちのインド進出)」はこちら

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