【世界史B】受験に役立つインド史 (第二次世界大戦後のインド) 第九回(最終回)

インドの歴史

みなさん、こんにちは。今回も【世界史B】受験に役立つインド史シリーズをはじめます。今回はついに最終回です。タイトルは「第二次世界大戦後のインド」です。そう、最終回はインドが第二次世界大戦の後、どのようなルートをインドが辿ったのか、現在に到る過程について話ます。

 

まさしく、世界史で学んだことと現在の世界情勢とが繋がる感じですね。現代はまさしく歴史の集積の上に立っていると言っても過言ではありません。インドがイギリスから独立を希求して様々な運動を展開します。詳しくは、「【世界史B】受験に役立つインド史 (インドの独立運動)」をみてください。

 

そして、インドがイギリスから独立を勝ち得たのは運動が功を奏したというよりも、イギリス自体に問題が生じたからです。そう、二つの世界大戦でイギリスの支配は弱体化します。

 

ついにイギリスはインドから撤退しました。インド地域は、ヒンドゥー教中心のインドとイスラーム教中心のパキスタンやバングラデシュ、仏教中心のスリランカに分かれて独立します。特に、インドとパキスタンはカシミール地方をめぐって現在も対立しています。三度にわたる印パ戦争を繰り広げました。どういう過程を辿って、なぜインド・パキスタンが戦争するのかみていきましょう!

 

今回の記事のポイント・英領インド帝国はインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカに分離

・ネルーは非同盟主義外交を展開するが、中印紛争で外交路線が破綻

・インドとパキスタンはカシミール問題で対立。三度にわたる印パ戦争を行った

インドとパキスタン、スリランカ、バングラデシュの独立

(インド独立:wikiより)

第二次世界大戦がはじまると、イギリスはインドを連合国の一員として参戦させ、兵力供給源としました。イギリスは戦後の独立を約束しましたが、ガンディーらは即時独立を主張します。「インドを立ち去れ」運動を展開します。

 

これは、国際政治でも往々にしてあることですが、大国が約束をしておいてその約束を反故にし、結局弱小国は負担を押しつけられただけということがあります。つまり、ガンディーらの行動は理に適っていると言えるでしょう。

 

第二次世界大戦が終結し、イギリスでアトリー内閣が成立すると、イギリス議会はインド独立法を可決します。この法律に基づき、ヒンドゥー教国のインド連邦とイスラーム教国のパキスタンが分離独立します。

 

パキスタンの独立は8月14日、そしてインドの独立は8月15日に行われました。イスラム教を取り纏めていたジンナーがパキスタンの総督となり、ジャワハルラール・ネルーがインドの首相となりました。なおジンナーについては「【世界史B】受験に役立つインド史 (インドの独立運動)」をお読みください。

 

ちなみに、この当時のパキスタンは西北インドとベンガル地方の2つの地域から成り立っていました。のちに、ベンガル地方がバングラデシュとしてパキスタンから分離独立します。(下記参照のこと)

 

さらに、インド南方のセイロン島では仏教徒を中心とするスリランカが成立します。英領インド帝国はインド連邦、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ分離独立して現在に至ります。

ネルー政権の成立と非同盟主義

(アジア・アフリカ会議(バンドン会議):wikiより)

インド独立をけん引したガンディーは1948年に暗殺されてしまいました。元々、ガンディーはインドをヒンドゥー教とイスラム教徒との融和を図ってインドを統一した国家を理想としていましたが、ガンディーはヒンドゥー教徒からイスラム教に譲歩しすぎると思われ、ヒンドゥー教徒から暗殺されます。非暴力を主張していたガンディーは暴力によって殺されることになります。

 

イギリスによって生じたイスラム教とヒンドゥー教との対立が、インド独立という点では協力しつつも二次大戦後は決裂してしまいます。ガンディー暗殺の前年、インド連邦の首相となっていたのがネルーでした。

 

ネルーはイギリスから完全に独立したインドの指導者となります。1952年の総選挙で勝利したネルーは、国内基盤を安定化させたうえで非同盟主義を掲げた外交を展開します

 

非同盟主義とは、第二次世界大戦後におきた米ソ両大国による東西冷戦のどちらにも加わらず中立を保ち、第三世界を作り上げるという考え方です。

 

1954年、ネルーは中華人民共和国首相の周恩来と会談し、平和五原則を確認します。さらに翌年、インドネシアのバンドンで開かれたアジア=アフリカ会議(バンドン会議では平和十原則を確認し、第三世界の結束を固めました。

(アジア=アフリカ会議参加国:wikiより)

覚えておきたい年号1955(イクゴーゴー)のアジア=アフリカ会議

アジア=アフリカ会議にはネルー、周恩来、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、アフリカのエンクルマなど名だたる指導者が参加したことでも有名ですね。

 

1959年、ダライ=ラマの亡命をきっかけとしてインドは中国と戦争状態となりました。中印国境紛争です。この紛争でインドは中国軍に大敗します。ネルーは非同盟主義を放棄してソ連に支援を要請します。ネルーの非同盟主義は破綻してしまいました。

カシミール問題と印パ戦争

(印パ戦争:wikiより)

インドとパキスタンは分離独立後も対立が続きました。対立の原因は両国に接するカシミール地方(藩王国)の帰属問題とベンガル地方の支配についてです。

 

まさに現代史に繋がる話です。しっかりと理解をしていきましょう。

カシミール問題について

カシミール地方ではカシミール藩王国が支配していましたが、次々とアジア諸国が独立する最中どこの国の下に入るか問題でした。カシミール藩王はヒンドゥー教徒でしたが、カシミールの住民の7割強はイスラーム教徒でした。つまり、王はインドに編入したがりましたが、住民はパキスタンに編入したがるという構造でした。

1947年、インドとパキスタンの分離独立が決定すると、カシミール藩王は同じヒンドゥー教のインドへの帰属を決定します。しかし、住民はパキスタンへの立ち退きを拒否しパキスタンへの帰属を求めました。

 

インド、パキスタン両国はカシミール地方に軍隊を派遣します。こうして、第一次印パ戦争が始まりました。両軍の衝突はインド軍優位となり、国連の調停で停戦となります。

 

1965年、中国がインドと中国の国境付近のアクサイチンを侵攻します。そこで中印戦争が起こりますが、それに呼応するようにインドによるジャンム=カシミール州の完全併合にパキスタンが反発し、パキスタンがインドを攻め第二次印パ戦争が起きました。中印国境紛争でインドが敗北したスキを突いたともいえますね。

 

戦いは両軍とも譲らず。結局、アメリカやソ連の仲介により停戦しました。戦争後も両国はカシミール地方領有の主張を取り下げません。なお、現在、カシミール地方は、インド、パキスタン、中国が各々実効支配する形になっています。

バングラディシュの成立について

1971年、東パキスタンにあたるベンガル地方は西パキスタンからの独立を宣言します。ベンガル地方の東パキスタンも西パキスタンと同じイスラム教国でありますが、ベンガル地方の住民は自らベンガル語を使用していましたが、西パキスタンが言語をウルドゥー語に統一しようとして反発します。

 

言語が変わるというのは自らの文化の消滅も意味します。東パキスタンが立ち上がったのも肯首できます。なお、ウルドゥー語はムガル帝国時代にできた言語でしたよね。詳しくは「【世界史B】受験に役立つインドの歴史(ムガル帝国)」をみてください。

 

インドのインディラ=ガンディー首相は東パキスタンを支援します。ちなみにこの首相の父はネルーで、マハトマ=ガンディーとは全く関係ありません。第三次印パ戦争が始まります。

 

戦いはインドが有利となりました。東パキスタンは西パキスタンから完全に独立し、バングラデシュが成立しました。

よく、バングラディシュとパキスタンの区別がつかないという生徒がいますが、バングラディシュはベンガルという語がなまった形ですし、パキスタンは近くに「〜スタン」という国が多くあるのでその絡みで覚えておきましょう。

まとめ

インド地域は宗教ごとに分離独立しました。その原因はイギリスがかつて行った分割統治にあります。ネルーは冷戦に巻き込まれず、第三世界を構築する非同盟主義を目指しましたが、非同盟主義国同士の戦争となった中印紛争で非同盟主義路線を放棄します。

 

インドとパキスタンはカシミール問題で激しく対立。3度の戦争を繰り広げ、互いに核兵器を開発して現在も対立し続けています。以上、インドの歴史でした。お疲れ様でした。しっかりと復習をしてください。

 

前回の記事:「【世界史B】受験に役立つインド史 (インドの独立運動)

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