こんにちは。今回も世界史Bの受験に役立つインド史シリーズをはじめます。今回はインドの独立運動についてです。インド大反乱の鎮圧後、イギリスはインド帝国を樹立しインドに対する支配を強めました。
イギリスの利害を優先する植民地支配に対し、インド国内のエリート層を中心にインド人としての民族的自覚が芽生え、独立運動が始まります。今回は、20世紀前半にインドで起きた反イギリス闘争と独立運動についてまとめます。
今回の記事のポイント・インド国民会議はベンガル分割令に反発してスワラージなどの四綱領を採択
・ジンナーは全インド=ムスリム連盟を設立
・第一次世界戦後、イギリスはローラット法を制定し独立運動を弾圧
・ガンディーは非暴力・不服従運動を展開し、イギリスからの独立を目指した
インド国民会議の成立とイギリスの分割統治
(ティラク:wikiより)
インド大反乱の鎮圧後、イギリスはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を樹立します。本国からインド総督を派遣し、イギリスがインドを直接統治する仕組みを整えました。
イギリスは統治にあたって、インド人の官吏や軍人を登用して植民地支配を強めます。統治をスムーズに行うため、イギリスは英語教育を強制しました。しかし、英語の強制は反イギリス感情を強く刺激します。
イギリスは反英感情を抑えるため、インド国民会議の設立を支援し親英機関として育てようとしました。
1905年、イギリスはベンガル地方をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の地域に分割するベンガル分割令を出します。イギリスの狙いはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して統治する分割統治にありました。
インド国民会議はベンガル分割令に反発します。1906年のインド国民会議カルカッタ大会では、ティラクが中心となって四綱領を採択しました。四綱領とは、英貨排斥、スワデーシ(国産品愛用)、スワラージ(自治)、民族教育のことです。ティラクはインドで最初に自治を訴えた人物でした。
イギリスはティラクを逮捕し国民会議の分断を図る一方、イスラーム教徒の指導者ジンナーに働きかけ、全インド=ムスリム連盟を発足させます。ジンナーはイギリスに協力すれば後にイギリスから自治権をもらえると考えイギリスに協力します。
後にガンディーと対立してパキスタン構想を打ち立てますが、大きな思想の違いとして自治とはガンディーのインド自らが勝ち得るものと考えたのに対し、ジンナーは相手に協力することで後に恩恵に与れると考えていました。
どちらが戦略的に正しいかはさておき、ジンナーの相手に依存する戦略は相手が良心的でない場合には相手は自らの利益を放棄し得ないのではないかと私は考えます。
第一次世界大戦の参戦とイギリスの裏切り
(アムリットサール事件:wikiより)
1914年、第一次世界大戦がはじまりました。第一次世界大戦については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(第一次世界大戦)」で詳しく書いてますので是非読んでください。
イギリスはヨーロッパでの戦線を支えるため、インドで兵士を募集し、戦線に投入しました。1917年、イギリスは大戦後のインドの自治を約束し、独立派に期待を持たせます。
しかし、第一次世界大戦が終結すると事態は一変します。反イギリス闘争の高まりに応じて、イギリスはローラット法を制定します。
ローラット法はインド総督に逮捕状無しに逮捕し、裁判なしで投獄できる権限を与える強圧的な法律で、イギリスは反イギリス運動を武力で徹底的に抑え込もうとします。
ローラット法に対する反発が強まる中、インド西北部のアムリットサールではイギリス軍が民衆に発砲する事件が起こりました。多数の死傷者を出すアムリットサール事件が起きます。
ガンディーの非暴力・不服従運動と独立運動の高まり
(マハトマ=ガンディー:wikiより)
イギリスの強圧的支配に対し、非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ運動)で対抗しようとしたのがガンディーでした。ガンディーはヒンドゥー教の代表として洋服を脱ぎ捨てインドで運動を展開します。
そして、運動の高まりを受けて、イギリスはインド統治法を制定し地方自治の範囲を拡大しますが、財政・警察をイギリスが握ったままだったので反発は和らぎませんでした。
1929年、世界恐慌などによりインド経済が悪化します。世界恐慌については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(世界恐慌)」を読んでください。
そして、インドでは農村の貧困化が一層進みます。国民会議派の中では、ネルーなどの新しい世代が指導者として台頭します。ネルーらはイギリスに対しプールナ=スワラージ(完全独立)を主張するようになりました。
1930年、ガンディーは一時中断していた非暴力・不服従運動を再開します。ガンディーが目を付けたのは塩でした。ガンディーはイギリスの塩税を非難し、インド人による塩の生産の自由化を求めます。
そのために、ガンディーはイギリスが法で禁じた海水から自由に塩を作る作業をインド西岸のアフマダバードなどで実施します。ガンディーが行くところ、大群衆が付き従いました。この行動を「塩の行進」といいます。今回の記事のアイキャッチ画像はカンディーの塩の行進の写真です。
非暴力・不服従運動によって追い詰められたイギリスは英印円卓会議を開催します。しかし、会議の終了後、イギリスはガンディーを危険視し、逮捕・投獄しました。
1935年、イギリスはインド統治法に代わり新インド法を公布します。地方で選挙権を拡大し、地方議会や地方政府に大幅な自治を認め事態の鎮静化をはかりました。もっとも、この法は実際には様々な保留事項を設け自治は見せかけのものにすぎず、478カ条からなることから「世界最長文の欺瞞的憲法」と言われることになります。
まとめ
イギリスはインドを直接統治し、強圧的な支配を行いました。インドでは国民会議派が中心となってイギリスからの独立を目指します。
イギリスはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用した分割統治を実施し、インドの分断をもくろみます。これに対し、ガンディーは非暴力・不服従運動を行い、イギリスを追い詰めました。また、インド国民会議派の中にはネルーなどの新しいリーダーが登場。インドの完全な自治を要求しました。
次回は、インドの独立がさらに加速していきます。次回がインドの歴史の最終回です。お楽しみに。
前回の記事はこちら
「【世界史B】受験に役立つインド史(イギリスのインド支配)」
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