【世界史B】受験に役立つオリエント史(近代のエジプトとエジプトの植民地化)第12回

アジア史

みなさん、こんにちは。今回も世界史Bの受験に役立つオリエント史シリーズをはじめます。前回までのオスマントルコと場所は代わって第12回は近代のエジプトとエジプトの植民地化についてです。

 

ざっくりと近代エジプトの話をすると、時代はナポレオンの時の話です。ナポレオンのエジプト遠征による混乱に乗じてエジプト総督となったムハンマド=アリーは富国強兵をすすめエジプトを強国にしようとしました。しかし、ムハンマド=アリーの力がオスマン帝国をしのぐようになると、エジプトの大国化を恐れたイギリス・フランスなどの西欧列強によってエジプトは押さえつけられてしまいました。

 

今回の記事のポイント・ナポレオンのエジプト遠征でエジプトは混乱状態となった

・エジプト総督となったムハンマド=アリーは事実上、オスマン帝国から独立

・第一次・第二次エジプト=トルコ戦争の結果、エジプトの領土拡大は阻まれた

・スエズ運河株はイギリスに売却され、運河はイギリスとフランスに支配された

・ウラービーはエジプト人で最初の民族運動を起こしたが失敗した

ナポレオンのエジプト遠征

(ピラミッドの戦い:wikiより)

1798年、フランスの将軍ナポレオンはイギリス経済に打撃を与えるためエジプト遠征を実行。ナポレオン率いるフランス軍はアレクサンドリアに上陸しました。ナポレオンについては「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(フランス革命とナポレオン)【近代編その6】」を読んでください。

 

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S先生

この時、ナポレオンは「兵士諸君、このピラミッドの上から、4000年の歴史が君たちを見下ろしている」と言って兵士を鼓舞したそうです。

 

ナポレオンはマムルークを主体とするオスマン帝国軍をピラミッドの戦いで打ち破ります。しかし、イギリスのネルソン提督がアブキール湾の海戦でフランス海軍に勝利します。制海権を失ったナポレオンはフランスへと脱出しました。

 

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S先生

ちなみにこの時の、イギリス海軍の司令はネルソン提督ですね。ネルソン提督はのちのトラファルガーの戦いで戦死しますが、この戦いでフランス軍がイギリスを制服するのを阻みます。

ナポレオン軍の撤退後、エジプトはオスマン帝国が派遣した軍とエジプト総督、地元の有力者であるマムルークが三つ巴になって争う混乱状態となります。

ムハンマド=アリーの台頭とエジプトの近代化

(ムハンマド=アリー:wikiより)

混乱したエジプトで急速に力をつけたのがムハンマド=アリーでした。ムハンマド=アリーはオスマン帝国が派遣した軍団の一員で傭兵隊長だったといいます。ムハンマド=アリーは1805年にカイロ市民の支持を得てエジプト総督となりました。

 

事実上、オスマン帝国から独立他ムハンマド=アリーはエジプトで強い影響力を持っていたマムルークの排除を図ります。1811年、ムハンマド=アリーはマムルーク500人余りを式典に招待し、その会場で皆殺しにしてしまいました

 

反対派を排除したムハンマド=アリーはエジプトの近代化を推し進めます。商品作物の綿花の奨励、灌漑用水の導入による生産力向上、税制改革、工場建設、外国人技術者の導入、教育の充実、徴兵制度による陸軍の整備など改革派あらゆる分野に及びました。

ムハンマド=アリーの外征

(キオス島の虐殺:wikiより)

国内改革で力をつけたムハンマド=アリーの目は、外国へと向けられます。1818年、ムハンマド=アリーはオスマン帝国の要請に応じアラビア半島のワッハーブ王国を滅ぼしました

 

1821年、ギリシア独立戦争が始まりオスマン帝国が鎮圧に苦戦するとムハンマド=アリーに援軍を要請します。エジプト軍はギリシア軍を次々に打ち破りますが、イギリス・フランス・ロシアが介入します。オスマン帝国・エジプトの連合海軍はナヴァリノ海戦で敗北します。ギリシア独立が決まりました。

 

ギリシア独立戦争後、ムハンマド=アリーは援軍派遣の代償としてオスマン帝国にシリアを要求する。オスマン帝国が拒否したことから第一次エジプト=トルコ戦争が始まります。エジプトはロシアの支援を受け戦争に勝利します。

 

オスマン帝国の弱体化については以前、受験に役立つヨーロッパの歴史シリーズで記載しました。是非「オスマン帝国の衰退」をお読みください。

 

しかし、ムハンマド=アリーの力が強くなりすぎるのを警戒したイギリス・フランス・ロシアがシリア奪還を目指すオスマン帝国を支援します。1839年、ムハンマド=アリーは第二次エジプト=トルコ戦争で敗北します。エジプトはオスマン帝国から独立しますが、領土の拡大は欧州列強によって阻まれました。

スエズ運河建設とエジプトの財政破綻

(スエズ運河開通:wikiより)

ムハンマド=アリーの死後も、エジプトは豊かな農業生産力をもつ東地中海の大国でした。しかし、スエズ運河建設がエジプトに大きな変化をもたらしました。

 

フランス人技師のレセップスがエジプトにスエズ運河の開削計画をもちかけ、工事が始まったのが1859年です。それから10年の歳月をかけてスエズ運河は完成にこぎつけます。スエズ運河はフランスとエジプトが共同運営しました。

 

1862年にエジプトは外国資本からお金を借りる外債を募集します。以後、エジプトの外債は増え続けます。1875年、財政難に陥ったエジプト政府はイギリスにスエズ運河株を売却しました。以後、イギリスはエジプトに対する干渉を強めます。

イギリスによる保護国化

(ウラービー:wikiより)

19世紀の末、エジプトの財政は完全に破綻します。イギリス人やフランス人がエジプトの大臣となる事態まで発生しました。外国支配が強まる中、軍人のウラービーが「エジプト人のためのエジプトを掲げて革命を起こします。

 

ウラービーは反ヨーロッパ、反オスマン帝国を掲げました。しかし、イギリス軍がアレクサンドリアに上陸しウラービーを逮捕します。エジプト最初の民族主義運動は失敗に終わります。この革命にはパン=イスラーム主義の思想家アフガーニーも参加していました。その後、エジプトはイギリスに国家の主権の大部分を委ねる保護国とされてしまいます。

まとめ

エジプトの混乱に乗じて権力を握ったムハンマド=アリーは、周辺諸国に積極的に出兵しエジプトの領土拡大をはかりました。

 

しかし、これに警戒心を抱いたイギリスなどのヨーロッパ列強はエジプトの大国化を押さえつけます。ムハンマド=アリーの死後、エジプト政府は多額の債務支払いのためスエズ運河株をイギリスに売却してしまいます。イギリス・フランスの支配が強まる中、軍人のウラービーが蜂起しますが鎮圧されてしまいました。

前回の記事「【世界史B】受験に役立つオリエント史(衰退するオスマン帝国)第11回

 

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