こんにちは。今回は東南アジアの歴史についてまとめました。
東南アジアは中国とインドに挟まれた地域で、両地域の影響を色濃く受けました。
東南アジアの歴史について図や表もふんだんにあるのでしっかりと読んで理解していってください。
特に、北ベトナム、中男ベトナム、タイ、ビルマ、マレー、ジャワ、スマトラ、マレーの29王朝の順番は出題されるので、覚えておきましょう。
意外と入試に出るのでしっかりと理解してまとめていきましょう。
今回の記事のポイント・ベトナム北部は長く中国王朝に支配された
・扶南の港町、オケオからローマ金貨が出土。扶南を含む国々を港市国家とよぶ
・パガン朝は上座部仏教、シュリーヴィジャヤ王国とシャイレンドラ王国は大乗仏教
・アンコール朝はカンボジアの王朝でカンボジアとベトナム南部、タイを支配
東南アジア諸国家の成立
(チャンパ兵のレリーフ:wiki)
東南アジアはインドと中国に挟まれた場所に位置し、インドシナ半島部分と多くの島々から成り立ちます。東南アジアでは稲作や焼畑農業がおこなわれ、地域ごとに国々が成立しました。
5〜7世紀にはインド南端部のパーンディア朝(前3〜14世紀)やパラッヴァ朝(3〜9世紀)が繁栄していました。
ベトナム地方の国家
インドシナ半島のうち、ベトナム北部は中国王朝の支配下に置かれます。この中国の影響を受けて成立した文化がドンソン文化です。
イラワディ川流域ではインドとの交流を通じてピューと呼ばれる人々の港市国家郡が栄え、内陸ルートでインドの産物が扶南に流れました。
港市国家を訪れた外国人は自分たちの国の文化を伝えました。例えば、インド商人たちは仏教やヒンドゥー教を東南アジアにもたらします。中国商人は儒学や法制度などを持ち込みました。
扶南は、ベトナム南部からカンボジアにかけて成立したメコン川下流域の国です。扶南のオケオ遺跡からはローマ金貨が出土したことは覚えておきましょう。3世紀前半にはインドの大月氏(クシャーナ朝)に使者を派遣し、中国の三国時代の呉からは通商使節が来たという記録が残っています。
ピューの都市国家から扶南の中継地点であるチャオプラヤ川中・下流域では、モン人の港市国家郡であるドヴァラバーティーが成立していました。
また、ベトナム中部にはチャム人の国であるチャンパ王国が栄えました。中国史料では林邑や占城として書かれます。この林邑では青銅器を使用し、農耕に従事しながら独自の漁撈文化を持つサーフィン文化が成立しました。
マレー・スマトラ・ジャワについて
マレー半島やスマトラ島では7世紀以来、パレンバンを都とするシュリーヴィジャヤ王国が勢力を保っていました。
義浄はインドからの帰路にシュリーヴィジャヤ王国に立ち寄り、この地で大乗仏教が盛んに信仰されていることを記しています。
詳しくは「ヴァルダナ朝と南インドの諸王朝【世界史B】受験に役立つインドの歴史(第3回)」を御覧ください。
8世紀、ジャワ島ではシャイレンドラ王国が成立します。大乗仏教信仰にもとづき、ボロブドゥールを建設します。
そして、マレー半島をシャイレーンドラが支配するも古マタラムによって排除されます。古マタラムではヒンドゥー教寺院のロロジョングランが建造されました。
その後、マレー半島とスマトラ島の港市国家は三仏斉(ジャーヴァカ)という連合を形成して交易の安定化を図りました。
東南アジア社会の発展
11世紀に入ると、東南アジア各地で民族を単位とする国家がつくられ、独自の文字や宗教などが確立します。
ベトナム地域
ベトナム北部では李朝大越国が中国の影響下から独立します。
ベトナム中部は引き続きチャンパが支配しました。
カンボジア地域
カンボジアでは6世紀にクメール人のイシャーナヴァルマン1世が扶南を破り真臘を建国します。真臘は元々扶南の属国でしたが立場が逆転します。
8世紀に一時南北に分裂しますが、802年ごろジャヤヴァルマン2世が真臘を統一し、アンコール朝を建国します。ジャヤヴァルマン7世は方形のアンコール=トムを建設しました。
12世紀に入るとスールヤヴァルマン2世が領土を拡大します。彼はヒンドゥー教の寺院であるアンコール=ワットを建設するなど繁栄を誇ります。
(アンコールワット:wikiより)
- ジャヤヴァルマン2世:アンコール朝の創始者。
- ジャヤヴァルマン7世:アンコール=トム
- スールヤヴァルマン2世:アンコール=ワット
ミャンマー
インドシナ半島西部のミャンマーでは、ビルマ人のパガン朝が成立します。パガン朝では上座部仏教が信仰されました。
パガン朝は雲南地方とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し、ビルマ族とモン族との融和が図られます。その後、13世紀末にモンゴル軍の攻撃を受けて衰退しました。
元の侵攻とイスラーム化の始まり
13世紀、元の皇帝フビライは東南アジアにも兵を送り領土拡大をはかりました。元軍の攻撃を受けビルマのパガン朝は滅亡します。
詳しくは「【世界史B】モンゴル帝国と元(受験に役立つ中国史)」を読んでください。
ベトナム地域
李朝にかわってベトナム北部を支配した陳朝大越国やチャンパ王国は元の侵攻を退けました。
ジャワ島のシンガサリ王国の攻撃も失敗に終わります。陳朝大越国ではチュノム(字喃)がつくられました。
また、陳朝のあと、一時的に中国の明が支配しますが15世紀前半に黎朝が明から独立しました。黎朝は中部ベトナムのチャンパを滅ぼしました。
ミャンマー
パガン朝の滅亡後、分裂が続いたビルマでは16世紀にトゥングー朝、18世紀にコンバウン朝が成立します。
両王朝ともタイに侵攻します。特にコンバウン朝はタイのアユタヤ朝を滅ぼしました。
タイ
タイでは13世紀に成立したスコータイ朝以来、上座部仏教が国教とされます。
14世紀中ごろ、スコータイ朝にかわってアユタヤ朝がタイを支配します。カンボジアにも侵攻するなど勢力を拡大します。
しかし、18世紀にアユタヤ朝はコンバウン朝に滅ぼされました。コンバウン朝を駆逐し、タイのバンコクにできた新王朝がラタナコーシン朝(チャクリ朝)でした。
ジャワ島・マラッカ
シンガザリ王国が滅亡したあと、13世紀末、マジャパヒト王国が成立しインドネシアからマレー半島にかけて支配します。
マジャパヒト王国はヒンドゥー教の王国です。よく、ひっかけ問題でイスラーム教国として出題されるので注意しましょう。
14世紀、イスラーム化したインドから伝わったイスラーム教はインドネシアやマレー半島などを中心に広がります。
特に、マレー半島にできたマラッカ王国は中継貿易で繁栄しました。マラッカではシャーバンダルという港湾長官が置かれ東西海洋交易の中継港としての地位を確立しました。
ただし、ポルトガルが侵攻してマラッカ王国は姿を消すことになります。
17世紀には、オランダとイギリスがポルトガルが香辛料交易の独占を試みましたが、マラッカ海峡のシンガポール側出口をおさえるジョホール、同じくマラッカ海峡のインド洋側出口をおさえる北スマトラのマカッサル、西ジャワでスンダ海峡をおさえるアチェ、南スラウェシのバンテンといったイスラーム港市国家が立ちはだかり、独占的な海洋交易ルートの構築には至りませんでした。
東南アジアの王朝全てを一気に暗記
(東南アジアの地域名)
受験において東南アジアの王朝について並び替えや違う地域の仲間はずれを選ばせる問題が頻出されます。そこで、東南アジアの王朝を一気に暗記する必要があります。
今回は東南アジアの王朝29個を記載しましたので一気に地域ごとに暗記していきましょう。
北ベトナム | 中南ベトナム | カンボジア | タイ | ビルマ(ミャンマー) | スマトラ | ジャワ | マレー |
ドンソン文化 | チャンパー(林邑):中国隋代 | 扶南:オケオ遺跡でローマ金貨 | ドヴァラバティ→カンボジアの王朝が支配 | ピュー | シュリービジャヤ:大乗仏教、義浄 | シャイレーンドラ:ボロブドゥール、大乗仏教 | |
安南 | チャンパー(環王)中国唐代 | 真臘(→仏領インドシナ):アンコール=トム、アンコール=ワット | スコータイ:上座部仏教 | パガン:上座部仏教 | アチェ(→オランダ植民地) | 古マタラム(ヒンドゥー寺院:ロロジョングラン) | |
李朝 | チャンパー(占城)中国宋代 | アユタヤ | トゥングー:アユタヤ朝滅ぼす | クディリ | |||
陳朝:字喃 | ラタナコーシン(独立維持) | コンバウン(→英領インド帝国) | シンガザリ | ||||
黎朝 | マジャパヒト:ヒンドゥー教 | マラッカ(→ボルトガル植民地) | |||||
西山(タイソン) | マタラム(東)・バンテン(西→オランダ領) | ||||||
阮朝(→仏領インドシナ) |
まとめ
中国とインドの中間に位置する東南アジアは、両地域から大きな影響を受けました。その中で、10世紀ころを中心に、各地で民族ごとの国が成立します。
近年、主要地域だけではなく東南アジアも含む周辺史の出題割合が増加傾向にありますので、主要地域の学習を終えた受験生は9割越えを目指し、周辺史もしっかり押さえましょう。
次回は、植民地時代「東南アジアの歴史(植民地時代から現代まで)」を記載します。しっかりと理解していきましょう。
実際に出題された問題については「東南アジア及び南インドの歴史についての入試問題を集めました【世界史B】」にありますので、ぜひ解いていきましょう。
コメント
[…] 「東南アジアの歴史のまとめ(前編)暗記すべき王朝一覧表つき【世界史B】」 […]