2代将軍徳川秀忠の後を受けて3代将軍となったのは、子の家光です。
家光の政策として、1635年の参勤交代の制度化した武家諸法度の寛永令、江戸幕府の政治機構の整備があります。また、彼の時代に起こった出来事として、紫衣事件、島原の乱がありますのでしっかりと押さえておきましょう。
今回は家光の政策について解説していきます。またこの時代に起きた重要な戦乱として島原の乱がありますが、こちらもあわせて説明するのでぜひ最後までご覧ください。
この記事からわかること・徳川家光の時代に出された武家諸法度のことを寛永令という。
・寛永令では参勤交代の制度化を行うと同時に、500万石以上の船を建造することを禁止した。
・三奉行とは、寺社奉行・勘定奉行・町奉行のことである。
・紫衣事件をきっかけに幕府は朝廷に対する統制を強化した。
・1637年に天草四郎時貞を中心とした勢力が反乱を起こした。これを島原の乱という。
参勤交代
(徳川家光像:wikiより)
徳川秀忠の後を受けて3代将軍に就任したのが、徳川家光です。
家光は秀忠と同様1635年に武家諸法度を出しました。この時代に出された武家諸法度のことを寛永令といいます。
この寛永令には、大きな特徴が二つあります。一つ目は参勤交代を制度化したことです。
これにより、大名には江戸と自分の領国を1年交代で往復することが義務付けられたのと同時に、大名の妻子は江戸に住まなければならなくなりました。
そこには大名が幕府に対して反抗しないように人質を確保することに加え、江戸との往復や滞在費で莫大な費用を使わせることで、大名の勢力を削減するという目的があったのです。
寛永令の二つ目の特徴は500万石以上の船の建造を禁止したことです。
この背景には鎖国があります。鎖国に関しては次回記事「江戸時代初期の外交について解説(入試問題付き)【日本史第46回】」もあわせてご覧ください。この寛永令によって、幕府の大名統制が確立しました。
では続いて、江戸時代の政治機構について見ていきます。
江戸時代の政治機構について
(江戸時代の職制:オリジナル)
家光の時代には将軍と大名との主従関係が確立されたほか、政治機構も整備されました。ここでは、その政治機構の中でも重要な項目をピックアップして紹介します。
江戸幕府のトップはもちろん将軍ですが、その次は老中です。
この老中が政務を統括していました。本来なら大老が将軍の次に来ますが、大老は常時置かれていたわけではないので老中が事実上の2番手として機能していました。
その老中をサポートしているのが、若年寄です。また将軍の側近で、将軍の命令を老中に伝えていたのが側用人です。5代将軍綱吉の時代に牧野成貞が初めての側用人になりました。
幕府の職制の中には、西国や朝廷・旗本・御家人の監視する役割もあります。
京都に置かれていた京都所司代は朝廷の監視を行っているほか、大坂城代では西国の監視をしていました。また大名の監視は大目付が、旗本・御家人の監視は目付が行っていました。
最後に見ていくのは三奉行です。三奉行とは寺社奉行・勘定奉行・町奉行の3つのことを指します。
寺社奉行は寺社の管理をしているところ、勘定奉行は税金の徴収や訴訟を行っていたところ、町奉行は京都・大阪・駿府などの重要な町の管理を担うところです。
この三奉行だけでは決められないことに関しては評定所で老中と三奉行が合議して決定をしていました。
他にも細かい職制がまだまだありますが、ひとまずはこれらの内容をおさえておいてください。次の項目では朝廷に対する統制について見ていきます。
紫衣事件
(後水尾天皇:wikiより)
幕府が朝廷に対する統制を強めるきっかけになった紫衣事件について解説します。
そもそも紫衣(しえ)とは徳の高い僧に贈る紫色の僧衣のことです。
1615年に制定された禁中並公家諸法度には紫衣の許可規定が定められていましたが、後水尾天皇はそれを守らず、大徳寺などの僧侶に紫衣着用を許可しました。
これを問題視した幕府はそれに対して抗議した沢庵らを流罪にするとともに、この事件以後、朝廷に対する統制を強化していきました。
島原の乱
(天草四郎:wikiより)
最後に家光の時代に起きた戦乱とその背景について見ていきます。
当初幕府はキリスト教を容認していました。しかしキリスト教の影響が大きくなることを脅威に感じた幕府は1612年、直轄領に対して禁教令を出すとともに、翌年には全国にその範囲を広げます。
これに基づき、多くのキリスト教信者は国外追放されました。その中には高山右近がいます。
これにより多くの者は改宗したものの、中にはひそかにキリスト教を信仰する隠れキリシタンもいました。
そして1637年に九州にある島原地方のキリシタン農民たちが、領主に対して反乱を起こします。
これが島原の乱です。その中心人物が天草四郎時貞で、彼を筆頭に戦ったものの結局鎮圧されました。
この戦乱を受けて、九州を中心に絵踏を強化したり、宗門改めを実施して仏教への転宗を強制したりと、キリスト教徒に対する厳しい取り締まりを進めました。
今回の内容はここまでです。
ではここまでの内容にまつわる入試問題を解いて理解度をチェックしてみてください。
入試問題にチャレンジ
設問文
また,老中配下の【A】は,大名の監察や法令伝達,江戸城内での儀礼などに関与した。日常的な訴訟や財政・行政などの政務は三奉行と総称される人々が管掌し,三奉行が独自には決められない案件などは【B】において合議で決定した。
問1 空欄【A】にあてはまる,もっとも適切な職名を答えよ。
問2 空欄【B】にあてはまる,もっとも適切な語句を答えよ。
問2 評定所 三奉行が独自には決められない案件などは評定所で老中と合議して決定していました。
<解説>正解は①。②は慶長の役ではなく、文禄の役です。③は清が間違いで、明が正解となります。④ですが朝鮮水軍を率いたのは李成桂ではなく、李舜臣です。なお文禄の役のことを壬辰倭乱、慶長の役のことを丁酉倭乱といいます。
いかがだったでしょうか。
2問とも解けたという方は素晴らしいです。この調子で頑張っていきましょう。難しいと感じた方も大丈夫です。この記事をもう一度読み直して再チャレンジしてみてくださいね。
まとめ
今回は参勤交代や江戸時代の政治機構・島原の乱について解説しました。
家光の時代には大名への統制や政治機構の確立が行われました。また幕府は朝廷に対しても騰勢を強めたほか、キリスト教についても厳しく取り締まったことを覚えておいてください。
前回の記事「江戸幕府の成立から豊臣滅亡までを解説(入試問題付き)【日本史第44回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「江戸時代初期の外交(鎖国など)について(入試問題演習付き)【日本史第46回】」
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