宝暦・天明期の文化について解説(入試問題付き)【日本史第56回】

今回は宝暦・天明期の文化について解説します。

18世紀になって発展した蘭学・国学を中心に扱っているほか、文学・絵画で登場した新たな作品についても紹介していきます。

最後には入試問題を用意しているので、ぜひ最後までお読みいただき、宝暦・天明期の文化をマスターしていきましょう。

この記事からわかること・宝暦・天明期の文化の学問・教育・文学・芸術各分野に出てくる重要な人物

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学問

(杉田玄白:wikiより)

まずは学問の分野から見ていきます。

蘭学

(前野良沢:wikiより)

宝暦・天明期は、鎖国状態ではありながら、西洋文化の影響を受け始める時代でもあります。

世界の地理・物産・民族などを説いた「華夷通商考」を著した西川如見や、イタリア人宣教師シドッチを尋問した際に「采覧異言」・「西洋紀聞」を著した新井白石が先駆けとなりました。

また8代将軍徳川吉宗の時代に漢訳洋書輸入の禁が緩和されたことにより、中国語に翻訳された西洋の書物に限り、輸入が認められるようになりました。幕府はヨーロッパの学問(洋学)を吸収するため、青木昆陽野呂元丈にオランダ語を学ばせます。

これによって洋学はまず蘭学として発展していきました。

洋学がいち早く取り入れられたのは、医学の分野です。1774年に杉田玄白前野良沢が、西洋医学の解剖書「ターヘル=アナトミア」を翻訳した「解体新書」を著しました。杉田玄白はこのほかにも翻訳の際の苦労を記した「蘭学事始」を残しています。

続いて杉田玄白と前野良沢の弟子である大槻玄沢は、蘭学の入門書「蘭学階梯」を著し、江戸に芝蘭堂を開くなど、蘭学の普及に努めました。玄沢の門人には、オランダ語の辞書である「ハルマ和解」を著した稲村三伯がいます。

また長崎で学んだ科学の知識をもとに物理学の研究を進めた平賀源内が、エレキテルの実験を行ったこともおさえておきましょう。

国学

(本居宣長:wikiより)

続いては国学について解説します。

国学とは日本古来の道を説く学問のことで、中国の学問である儒学への偏重に対する反発として台頭しました。

荷田春満(かだのあずままろ)やその門人である賀茂真淵は日本古代の思想を追究し、儒教や仏教も外来思想として排したのと同時に、日本本来の考え方に戻ることを主張しました。特に賀茂真淵が「国意考」を著したことを覚えておいてください。

また賀茂真淵の門人・本居宣長は、「古事記」を研究し、「古事記伝」を著しました。彼も日本古来の精神に立ち返ることを主張した人物の一人でした。

一方盲目の学者である塙保己一は、古典の収集・保存を行い、幕府の援助を受けて和学講談所を設け、「群書類従」の編纂・刊行を行いました。

18世紀半ばになると、封建社会を批判し、改めようとする意見が増え始めます。安藤昌益は、万人が自ら耕作して生活する自然の世を理想とし、封建制度を批判した著書「自然真営道」を残しました。

さらに天皇を尊ぶ尊王論が出てくるのもこの頃です。京都で尊王論を説いた竹内式部が追放された宝暦事件や、江戸で尊王論を説いた山県大弐が死刑に処せられた明和事件が起こったことをおさえておきましょう。

教育

(閑谷学校:wikiより)

続いて教育について見ていきます。

藩士や子弟の教育のために設立された藩校が全国の諸藩で見られるようになりました。例としては米沢の興譲館・熊本の時習館・秋田の明徳館などがあります。

また藩士や庶民の教育を目指したのが郷校です。17世紀後半に岡山藩主池田光政は建てた閑谷学校はその早い例で、他にも江戸の芝蘭堂や長崎の鳴滝塾、京都の古義堂、大坂の懐徳堂があります。とくに懐徳堂からは富永仲基山片蟠桃らの学者が生まれました。

一般庶民の初等教育では、寺子屋が作られ、読み書きそろばんなどが教えられました。

文学・芸能

(柄井川柳:wikiより)

文学の分野では、まずこの時代に登場した洒落本黄表紙について紹介します。洒落本とは江戸の遊里を描いた本で、山東京伝の「仕懸文庫」が代表作です。黄表紙とは風刺のきいた絵入りの小説で、代表作には恋川春町の「金々先生栄花夢」があります。いずれも寛政の改革で厳しく取り締まられました。詳しくはこちらの記事「寛政の改革について解説(入試問題演習付き)【日本史第57回】」もあわせてご覧ください。

また柄井川柳は俳句の形式を借りて世相や風俗を風刺する川柳を生み出しました。

一方芸能では浄瑠璃の分野で「仮名手本忠臣蔵」の竹田出雲や、「本朝廿四孝」の近松半二など、優秀な脚本家が登場しています。

絵画

(三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛(東洲斎写楽筆):wikiより)

18世紀になると鈴木春信が完成させた多色刷りの錦絵により、浮世絵はますます盛んになります。浮世絵についてはこちらの記事「元禄文化について解説(入試問題も用意)【日本史第53回】」もあわせてご覧ください。

寛政の改革の頃には美人画の喜多川歌麿や、「市川蝦蔵」でも知られる東洲斎写楽らが、大首絵という人物の顔を強調する画法を取り入れて多くの作品を残しました。

写生画の円山応挙、文人画の池大雅・蕪村についてもおさえておきましょう。

今回の範囲はここまでです。最後に入試問題を解いて理解度をチェックしてみてください。

入試問題にチャレンジ

下線部ⓔに関して述べた次の文X・Yと、該当する語句a~dとの組合せとして正しいものを、下の①~④のうちから一つ選べ。

X この人物は、イタリア人のシドッチを尋問して海外情報を得た。

Y この書物は、仙台藩の藩医工藤平助が著したものである。

a 徳川吉宗 b 新井白石 c 『赤蝦夷風説考』 d 『ハルマ和解』

① X-a Y-c ② X-a Y-d

③ X-b Y-c ④ X-b Y-d

2014年 センター試験 本試験 日本史B 第4問 問5より)

正解 ③ 新井白石がイタリア人のシドッチを尋問して海外情報を得て作成したのが、「采覧異言」・「西洋紀聞」です。dの『ハルマ和解』は稲村三伯が著したものです。

 

まとめ

今回は宝暦・天明期の文化について解説しました。

多くの芸術作品や各分野の重要な人物がたくさん出てきており覚えるのが大変かもしれませんが、一つ一つの分野を完璧にしていってくださいね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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