秀吉が行った中心政策としては、太閤検地と刀狩の二つが挙げられます。
またバテレン追放令によって宣教師を国外追放する政策も行いました。
さらに秀吉は晩年に2度の朝鮮出兵を実施したのです。朝鮮出兵とは秀吉が朝鮮へ服属を求めたものの、拒否されたことを理由に兵を派遣したことを指します。結果的には李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍や秀吉の死もあり、成功には至りませんでした。
この結果豊臣政権は弱体化し、徳川家康が力をつけてきたことによって安土桃山時代は終焉へと向かっていきました。
今回は秀吉の政策から安土桃山時代の末期までを見ていきます。
この記事からわかること・秀吉の中心政策について
・朝鮮出兵に至るまでの背景・戦局
・安土桃山時代末期の状況
秀吉の政策
(バテレン追放令:wikiより)
まず、秀吉が進めた政策について見ていきます。
2つの中心政策
秀吉は全国統一を果たすまでの過程で2つの中心政策を進めました。その2つとは、太閤検地と刀狩です。
太閤検地とは、1582年に秀吉が獲得した領地を対象として行われた土地調査のことを指します。「太閤」は本来関白の座から退いた人のことを指す言葉ですが、主に秀吉のことを表すと考えていいでしょう。
では、信長の時代に実施された指出検地と何が違うのでしょうか?指出検地は家臣などの土地所有者による自己申告制でした。それに対して、太閤検地は検地役人を派遣して検地を行わせました。またそれまでバラバラだった枡の容量を京枡に統一したことによって、年貢を納める量にばらつきが出ないようにしたのです。この結果として、田畑などの生産高や年貢高を米の生産量で表す制度が確立されました。これを石高制(こくだかせい)といいます。
一方刀狩は、農民の身分を明確にするのと同時に、一揆を防止するという目的のもとで行われた政策です。1588年に出された刀狩令により、農民は武器を奪われることになりました。こうして秀吉は農民を農業に専念させることに成功したのでした。
次の項目からは、秀吉が行った対外政策を見ていきましょう。
秀吉の対外政策
秀吉は1587年にバテレン追放令を出して、宣教師を国外へ追放しました。
当初キリスト教を認めていた秀吉がなぜ心変わりしたのでしょうか?それはキリシタン大名の大村純忠がイエズス会に長崎の地を寄付しようとしていたからです。
しかしこれはあくまでも宣教師を追放するための法令であり、キリスト教を禁止するためのものではありませんでした。そのためほとんど効果がないまま終わってしまいました。
また1588年に海賊取締令を出して、倭寇の禁止を行うのと同時に京都・堺・長崎・博多の豪商に南方との貿易を奨励するなど、貿易政策にも力を入れたのでした。
次の項目では、いよいよ朝鮮出兵について見ていきます。
朝鮮出兵
(李舜臣:wikiより)
1590年に全国統一を果たした秀吉は次の狙いを明に定めます。明へ行くためには、朝鮮を通らなければなりません。そこで秀吉は朝鮮に服属するよう求めました。しかし朝鮮が拒否をしたため、出兵することを決心したのです。
秀吉は朝鮮出兵への準備を着々と進めていきます。1591年に人掃令を出して、武士が武士以外の身分になることや農民が農民以外の身分になることを禁止しました。結果的に身分が確定したこともあり、人掃令は身分統制令とも呼ばれます。その目的は朝鮮出兵に向けて兵力を把握することでした。
そして1592年、1回目の出兵を行いました。これを文禄の役といいます。日本軍は釜山に上陸して間もなく、漢城・平壌を占領することに成功しました。一方朝鮮は明からの援軍派遣や李舜臣(りしゅんしん)が率いる朝鮮水軍などの活躍で抗戦します。
戦局が膠着(こうちゃく)したため、結局日本軍は戦いをやめて和平交渉を持ちかけました。しかし秀吉は強硬な姿勢を崩さなかったため、交渉は決裂してしまいます。
1597年に2度目の出兵を行いました。これが慶長の役です。朝鮮側では、2度の侵略を壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)しかし日本軍は当初から劣勢を強いられ、秀吉が病死したこともあって兵を撤退させました。
2度の出兵で戦費と兵力を無駄に費やしたため、豊臣政権の弱体化が進むことになったのです。
安土桃山時代の終焉
(関ヶ原の戦い:wikiより)
秀吉の死後、徳川家康が地位を高めていきました。
しかしこれに反発した人物がいます。石田三成です。豊臣政権の存続を目指した三成は家康に反発する勢力を集めて1600年に関ヶ原の戦いで家康と戦います。
ところが三成らの西軍から家康率いる東軍へ寝返る者が多く、結果的に家康が勝利を収めました。敗れた三成らは処刑され、家康は江戸に幕府を開きます。これにより、安土桃山時代は終わりを迎えたのでした。
入試問題にチャレンジ
問 下線部ⓒに関して述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① この戦乱を、朝鮮側では壬辰・丁酉倭乱とよんでいる。
② 日本軍は、慶長の役で漢城(ソウル)を占領した。
③ 当時の中国王朝であった清は、朝鮮に援軍を派遣した。
④ 朝鮮水軍を率いる李成桂は、日本の補給路を断った。
(2015年 センター試験 本試験 日本史B 第3問 問5より)
bは「おとろえた」が間違いです。室町時代には各地で特産物の生産が盛んにおこなわれるようになりました。例としては、三河の綿織物や美濃・但馬の紙などがあります。
詳しくは「室町時代の農業・商工業について解説(確認問題付き)【日本史第36回】」の記事をご覧ください。
cは「時宗や律宗からなる」が誤りです。林下は地方への布教に力を入れた禅宗諸派のことを指します。もしcが難しい場合は、今回学習したdの内容が正しいと判断して解き進めるとよいでしょう。
<解説>②は慶長の役ではなく、文禄の役です。③は清が間違いで、明が正解となります。④ですが朝鮮水軍を率いたのは李成桂ではなく、李舜臣です。なお文禄の役のことを壬辰倭乱、慶長の役のことを丁酉倭乱といいます。
まとめ
今回は秀吉の政策から朝鮮出兵、安土桃山時代の終焉までを解説しました。
秀吉が行った政策をはじめ、朝鮮出兵を行った理由や結果を中心に覚えていきましょう。
前回の記事「秀吉の全国統一について解説(入試問題も解説)【日本史第40回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「桃山文化について解説(入試問題演習付き)【日本史第42回】」
日本史全体像を理解するには「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」がおすすめです。全体の流れが頭に入ってくるおすすめの一冊です。ぜひとも一読をおすすめします。
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