富士川の戦いに勝利した源頼朝はそのまま一気に京都を目指すのではなく、関東に引き返し、鎌倉を拠点として関東の支配を固めました。頼朝は御家人たちと御恩と奉公という土地を媒介とした主従関係を結びます。
頼朝は侍所や政所、問注所などの鎌倉幕府の基本的な仕組みを整えます。のちに、北条氏が侍所別当と政所別当を兼ねる執権の地位につき、執権政治を展開しました。加えて、源義経の逮捕を名目にして全国に守護や地頭を配置し、鎌倉幕府の支配力を徐々に強めます。
また、頼朝率いる鎌倉幕府は関東知行国や関東御領を財源とし、関東で朝廷に依存しない独自の支配体制を築き上げることに成功しました。
・頼朝が整備した初期の鎌倉幕府のしくみ
・鎌倉幕府の財源
鎌倉時代の封建的主従関係とは
富士川の戦いに勝利した源頼朝は鎌倉に本拠地を構え、徐々に勢力基盤を固めました。
頼朝は「鎌倉殿」とよばれ武家の棟梁としてふるまいます。頼朝に従う武士たちは「御家人」とよばれます。すべての武士が御家人ではないので注意しましょう。
鎌倉殿と御家人の間には土地給与を通して御恩と奉公の関係が成立します。その関係のことを封建制度(封建的主従関係)といいます。
鎌倉殿は御家人を地頭に任命し「御恩」を与えました。御恩には先祖伝来の所領支配を保障する本領安堵と新しく所領を与える新恩給与がありました。
一方、「御恩」をもらった御家人たちは鎌倉殿に対し、「奉公」をしなければなりません。奉公には合戦に参加する軍役と京都や鎌倉の警備を担当する番役などがありました。
鎌倉幕府の職制
(鎌倉幕府初期の職制:自作)
鎌倉に本拠地を置いた源頼朝は、幕府のしくみを徐々に整えていきました。
1180年には武士を統率する侍所、1184年には一般政務や財政を担当する政所(まんどころ)が整えられます。さらに、源義経追討を口実に、全国各地に守護や地頭を設置しました。
鎌倉に置かれた主な役職
最も早く設置されたのは侍所です。侍所は軍事や警察など武士とかかわりが深い仕事をあつかい、御家人たちを統率する機関です。侍所のトップである別当には和田義盛が任命されました。
次につくられたのが公文所です。1184年につくられた公文所はのちに改名され政所となります。1183年の寿永二年十月宣旨以降、頼朝は東国の支配を認められました。彼の政治を助けるのが政所の役割です。初代の別当は下級貴族の大江広元が就任します。
1203年、頼朝の妻である政子の父、北条時政が政所別当となりました。その後、和田合戦で和田義盛が滅ぼされると、北条時政が侍所別当も兼務します。以後、北条氏が侍所別当と政所別当を兼ね、執権と呼ばれるようになりました。
1184年、訴訟と裁判を司る問注所が設置されます。問注所の初代執事は貴族出身の三好康信でした。鎌倉幕府の職は、承久の乱の前と後で異なります。六波羅探題や評定衆は承久の乱後に設置されるので注意しましょう。
守護・地頭
守護・地頭が全国に設置されたきっかけは源義経の追捕でした。京都から奥州に逃れる義経を捕まえるためというのが設置の理由です。
国ごとに一人置かれた守護は大犯三カ条(謀反人・殺害人の逮捕、大番催促)を主な仕事とし、国内の治安維持につとめました。
このうち、大番催促は京都大番役に御家人を動員することで、主に天皇の住む御所などを警備しました。なお、番役には京都大番役のほかに鎌倉番役があり、こちらは鎌倉の警備が仕事でした。
各国の守護は、国衙がおこなっていた大田文の作成なども行うようになり、次第に国司の仕事は縮小します。
地頭は荘園や公領ごとに設置されました。
しかし、荘園領主や国司は地頭設置に猛反発します。彼らが反対した理由は、地頭の任免権が幕府にあり、地頭が段別5升の兵粮米を徴収する権利や土地管理権を持つことにありました。
つまり、地頭に荘園や公領の収入の一部を取られ、土地を乗っ取られると恐れたわけです。猛反対を受けた頼朝は、地頭の設置を旧平氏領(平家没官領)に限ることで妥協しました。
鎌倉幕府の経済的基盤
(関東知行国:世界の歴史マップ)
鎌倉幕府の経済的基盤は大きく分けて3つあります。
将軍家(頼朝)が与えられた「関東知行国」、かつて平家が所有していた荘園(平家没官領)である「関東御領」、将軍が地頭の任免権を持つ荘園や公領である「関東進止御領」です。
このうち、入試頻出なのは「関東知行国」と「関東御領」です。
関東知行国
関東知行国とは、朝廷から国司の任命権を認められた国です。
幕府は関東知行国に目代を派遣して、そこから上がる収入を得ることができました。
1186年の段階では相模や伊豆、武蔵など合計9カ国が関東知行国とされます。
しかし、平氏がもっていた知行国は日本国の半分に迫る30カ国ですので、それに比べればかなり限定的だったといえるでしょう。
関東御領
関東御領の中心となったのは平氏が持っていた所領です。
平氏政権が滅亡する直前、日本各地に平氏の荘園は500以上あったとされます。
それらの荘園は鎌倉幕府が所有することになりました。これが、平家没官領です。
鎌倉幕府は平氏討伐や奥州征討などに功績があった御家人たちを関東御領などの地頭に任じました。
朝廷と幕府による公武二元支配
(源頼朝)
鎌倉幕府が関東に成立したといっても、日本全国が鎌倉幕府の支配下に入ったわけではありません。
京都には朝廷があり、後白河上皇や後鳥羽上皇が院政を行っていました。そのため、朝廷と幕府の支配が混在する公武二元支配が各地で見られるようになります。
朝廷は国の支配者として国司を任命し、貴族や寺社の荘園所有権を認めます。
一方、幕府は国司の支配地である公領や荘園に地頭を派遣します。派遣された地頭は国司や荘園領主の支配を受ける一方、鎌倉幕府の指示にも従いました。
こうした複雑な支配は、土地をめぐる争いの原因ともなります。
入試問題に挑戦
下線部ⓐ(鎌倉幕府の支配の基盤には、将軍と御家人の間に結ばれた主従関係があった)に関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、下の①~④のうちから一つ選べ。(引用:平成29年度 センター試験 第3問 問1)
X 平氏から没収した荘園を含む関東御領は、幕府の経済基盤となった
Y 守護は、天皇や将軍の御所を警護する京都大番役の催促を職務とした
① X 正 Y 正 ② X 正 Y 誤 ③ X 誤 Y正 ④ X 誤 Y 誤
Xは正文。平氏から没収した平家没官領は鎌倉幕府の重要な財源となりました。
Yは誤文。京都御番役は天皇の住む御所の警備が主な仕事。将軍は鎌倉にいるので、将軍の警護は鎌倉番役でおこなう。
まとめ
富士川の戦いに勝利した源頼朝は、関東に残り御家人たちとのきずなを深めました。土地を媒介とした彼らの関係を「御恩」と「奉公」といいます。
同時に、頼朝は鎌倉で幕府のしくみを整えます。侍所や政所、問注所といったしくみはこの時期に整えられました。頼朝の死後、北条氏は執権となって鎌倉幕府の実権を握ります。
さらに、朝廷とは別に鎌倉幕府独自の財源もありました。朝廷から支配を認められた関東知行国や平氏から没収した荘園を中心とする関東御領などが財源です。しかし、平氏政権と比べても鎌倉幕府の財源はまだまだ小さなものでした。
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前回の記事「源平の争乱と鎌倉幕府の成立【日本史B第23回】」
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