源平の争乱と鎌倉幕府の成立【日本史B第23回】

1180年から1185年まで、源氏と平氏は日本各地で戦いを繰り広げました。この戦いを源平合戦、あるいは治承・寿永の乱といいます。

 

関東を制圧した源頼朝は鎌倉を根拠地と定め徐々に基盤を固めます。力を蓄えた頼朝の軍は源義仲、平氏を打ち破り治承・寿永の乱に勝利しました。しかし、頼朝と平氏討伐の功労者となった源義経が対立し、義経は奥州藤原氏のもとに逃れます。

 

この状況を頼朝は最大限に利用します。1185年、義経追捕を口実に全国に守護や地頭を置いたのです。そして、1192年に頼朝は征夷大将軍に就任し、名実ともに鎌倉幕府を開きます。「いい国つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで有名ですね。

 

今回は、治承寿永の乱の流れと、頼朝が鎌倉幕府を作るまでの道筋について解説します。

この記事のポイント・頼朝は富士川の戦いで勝利したのち、鎌倉を根拠地とした
・源義仲は頼朝よりも早く京都入り、平氏を都落ちさせた
・頼朝は朝廷の要請を受け、義仲と平氏を討伐する軍を西に向かわせた
・平氏討伐の功労者である義経は頼朝と対立し奥州藤原氏のもとに逃れた
・頼朝は戦いと並行し、鎌倉幕府のしくみを整えた
スポンサーリンク
スポンサーリンク

治承・寿永の乱のはじまり

(安徳天皇縁起絵図:wikiより)

鹿ケ谷の陰謀が発覚して以降、平清盛は後白河法皇の院政を停止し独裁を強めました。このことに反発した後白河法皇の皇子の以仁王は平氏追討の令旨を全国に発します。

 

これに対し、平氏は以仁王とともに挙兵した源頼政を攻撃し滅ぼしてしまいました。

 

しかし、以仁王の令旨を受け取った全国の反平氏勢力は全国各地で挙兵します。その中で最大の勢力となったのは関東の源頼朝でした。頼朝は平氏や木曽義仲、奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開きます

以仁王の令旨

1180年4月、後白河法皇の皇子の一人である以仁王が源頼政と共に挙兵しました。以仁王は平氏討伐の令旨を全国各地に発します。令旨とは、皇太子や親王が発することができる命令書です。

 

これを知った清盛は直ちに平知盛・平維盛に以仁王と源頼政を討たせました。以仁王自身は平氏の攻撃で敗死してしまいます。しかし、彼が発した令旨は全国の源氏を決起させました。

 

以仁王の令旨に応じて挙兵したのは、信濃源氏の源義仲(木曽義仲)や源氏の嫡流である伊豆の源頼朝などです。源義仲は北陸方面から京都に進撃し、頼朝は関東武士をまとめて富士川の戦いに勝利します。

源義仲(木曽義仲)の入京と平氏の都落ち

源義仲は北陸道から京都に向けて進撃を開始しました。1183年5月、源義仲軍は倶利伽羅峠の戦いで平維盛を打ち破ります。これにより、平氏は京都を放棄して西国へと落ち延びました。これを平氏の都落ちといいます。

 

この時、平氏は幼い安徳天皇を京都から連れ出しました。その一方で、後白河法皇らを連れ出すことはできませんでした。京都に残った後白河法皇や朝廷の公卿達は高倉天皇の皇子である尊成親王を後鳥羽天皇として即位させました。

 

京都に入った源義仲は後白河法皇と対立します。自分の武力を持たない後白河法皇は関東の源頼朝に対し義仲追討を命令しました。

平氏滅亡から奥州平定まで

後白河法皇の命を受けた源頼朝は弟の源範頼、義経を京都に派遣して義仲軍と戦わせます。1184年、宇治川の戦いで範頼・義経軍は義仲軍を撃破しました。敗れた義仲は討ち取られ、頼朝は京都より西の地域を手中に収めます。

 

義仲を討伐した範頼・義経軍はそのまま西に向かい平氏と対決します。1184年2月の一の谷の戦いでは義経が崖から奇襲攻撃を行い平氏軍を敗走させます。翌年5月の屋島の戦いでは、義経軍が悪天候をものともせず平氏軍を急襲して打ち破ります。

 

追い詰められた平氏は関門海峡の壇ノ浦に布陣し最終決戦を挑みました。壇ノ浦の戦いは源義経の活躍もあって源氏の勝利に終わりました。幼い安徳天皇は海中に没し、平氏は滅亡します。

 

その後、頼朝の許可なく義経が後白河法皇から官位を授かったことで両者が対立。義経は奥州藤原氏のもとに逃れました。この時、義経が頼ったのは藤原秀衡でした。

 

ところが、1187年に秀衡が亡くなると、子の泰衡は頼朝の圧力に屈し義経を滅ぼしてしまいました。それでも、頼朝からの圧力は止むことがなく、1189年に頼朝の奥州征伐を受けて奥州藤原氏は滅亡しました。

鎌倉幕府の成立

(鶴岡八幡宮:wikiより)

鎌倉幕府がいつ成立したのか、専門家の間でも意見が分かれます。

 

入試という視点で考えても、次の3つの出来事が鎌倉幕府の成立を考えるうえでとても重要です。

1183年:頼朝の東国支配を認めた寿永二年十月宣旨

1180年、頼朝は富士川の戦いに勝利しました。このとき、頼朝は一気に京都を目指すのではなく、東国支配を固めました。侍所を設置したのはこの時です。

 

1183年、平氏が源義仲に敗れ都落ちしたのち、朝廷は頼朝に対し寿永二年十月宣旨を下します。頼朝はこの宣旨を東国支配の根拠としました。宣旨の中で頼朝には荘園や公領の年貢を保証することが命じられます。その実行のため、頼朝は東国の支配権を朝廷から公認されました。

1185年:守護・地頭の設置

源義経は平氏を滅ぼした後、京都で後白河法皇から官位を授かります。義経が頼朝に無許可で官位をもらったことに対し、頼朝は激しく怒ります。そして、後白河法皇に義経追討を請いました。

 

追討を受けた義経は京都を脱出し奥州へと逃げます。このとき、頼朝は義経を追捕するためという理由をつけて朝廷に守護・地頭設置を認めさせます。

 

守護は国ごとに一人置かれ、京都大番役や謀反人・殺害人の逮捕(大犯三カ条)を任務とします。地頭は荘園や公領ごとに置かれ、治安維持と年貢の徴収にあたりました。

 

ただし、このとき設置された地頭は、旧平氏領(平家没官領)が中心です。

1192年:源頼朝が征夷大将軍になる

奥州を平定し、東国を完全に抑えた頼朝は後白河法皇に対し、自分を征夷大将軍に任じてくれるよう希望を出しました。しかし、後白河法皇は征夷大将軍への任官に応じず、かわりに右近衛大将に任じます。

 

後白河法皇の死後、頼朝は征夷大将軍に任じられました。これまで、徐々に幕府の機構を整えてきた頼朝は、征夷大将軍の任官で名実ともに鎌倉に幕府を開くことができたのです。

入試問題にチャレンジ

下線部ⓐに関連して、源平の争乱について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ (2014年 センター試験 日本史 第3問 問1より)

① 崇徳上皇と白河上皇の政権をめぐる抗争は、武士の政界進出の景気となった
② 源平の争乱が終結したのち、院政を再開した後鳥羽上皇は鎌倉幕府との協力関係を重視した
③源平の争乱を描いた『太平記』は琵琶法師によって語られ、人々に親しまれた
④源頼朝は、平氏が西国へ敗走したのち、後白河法皇と交渉し、東国の支配権限を認められた

 

正解:④。①は白河上皇ではなく、後白河上皇が正しい
②は後鳥羽上皇ではなく、後白河上皇
③は『太平記』ではなく、『平家物語』
④は正解。東国の支配が認められたのは寿永二年十月宣旨(1183)。平氏が都落ちしたのは同じ年の7月です。

 

まとめ

治承・寿永の乱は、以仁王の令旨に始まり源義仲の上洛、義経軍による義仲討伐と平氏討伐の順番で戦いが進み、最終的には頼朝の勝利に終わりました。

 

平氏討伐の功労者である義経は頼朝の許可なく後白河法皇から官位をもらったことがきっかけで頼朝と対立し奥州に落ち延びます。

 

頼朝はこの状況を利用して1185年に守護・地頭を設置し、鎌倉幕府の基盤を固めました。また、平氏の都落ちの前には寿永二年十月宣旨を受け、朝廷から東国支配権を認められます。

 

こうして、徐々に頼朝は鎌倉幕府の基礎を固め、1192年の征夷大将軍就任により名実ともに鎌倉幕府が成立します。

 

日本史全体像を理解するには「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」がおすすめです。全体の流れが頭に入ってくるおすすめの一冊です。ぜひとも一読をおすすめします。

 

前回の記事「院政期の文化の特色を解説!(文学・美術・建築・芸能について解説)【日本史B 第22回】

院政期の文化の特色を解説!(文学・美術・建築・芸能について解説)【日本史B 第22回】
平安時代中期の摂関政治期に生み出された国風文化は、平安時代後期の院政期になると武士の文化や地方の文化を取り込むことでさらに厚みを増しました。 文化の中心は国風文化期と同じく平安京でした。院政期になると東北地方の平泉に見られるように京都の文化...
スポンサーリンク

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました