【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(フランス革命とナポレオン)【近代編その6】

ヨーロッパの歴史【近代編】

こんにちは。「受験に役立つヨーロッパの歴史」シリーズをはじめます。今回はヨーロッパの近代編その6で「フランス革命とナポレオン」を取り上げます。受験にもそこそこ出るのでしっかりと整理してください。

 

フランス革命は市民が絶対王政を倒し、共和政を作り上げた歴史的な出来事です。周辺諸国との戦争に苦しんだフランスに一人の英雄が現れました。戦争の天才、ナポレオンです。ナポレオンは独裁権力を握り皇帝に上り詰めます。今回は、フランス革命からナポレオン戦争までの流れをまとめます。

 

今回の記事のポイント・フランス革命は流れが大事。並べ替え問題に対応できるよう、議会の順番を整理

・よく出るのが国民公会とロベスピエール。しっかりと整理しましょう

・ナポレオン戦争は戦いの順番と相手国を整理しましょう

革命のはじまり

(テニスコートの誓い:wikiより)

フランス革命前、フランス社会はアンシャン=レジームとよばれるしくみで動いていました。アンシャン=レジーム(旧体制)とは、フランスの旧い体制を指して、第一身分である聖職者と第二身分である貴族が、圧倒的多数の第三身分、市民や農民を支配する仕組みです。

 

ルイ16世のころ、フランスではアンシャン=レジームに対する不満が高まります。対外戦争の戦費や宮廷の浪費のため、第三身分に重い税が課せられたからでした。ルイ16世はテュルゴーネッケルに財政改革をさせますが、失敗に終わります。

 

ルイ16世は貴族に対して課税するため三部会を開きました。三部会は聖職者、貴族、市民の代表者からなる身分制議会です。この中で、第三身分である市民は、国民議会の開催を宣言し、憲法改正まで解散しないとするテニスコートの誓いを採択しました。

 

1789年7月、貴族たちに課税しようとしたネッケルが辞任に追い込まれると自分たちだけが課税されていると不満に思っていたパリ市民はバスティーユ監獄を襲撃し革命に発展しました。

 

フランス革命は7・8・9の順番に続いている(1789)と覚えましょう。

 

農村では領主たちが農民たちを襲うという噂が流れ、パニックに陥った農民たちが暴動を起こし領主館を襲撃する大恐慌へと発展します。

国民議会

(ヴェルサイユ行進:wikiより)

混乱が拡大し事態が緊迫する中、国民議会は人権宣言を採択します。人権宣言の起草者ラ=ファイエット国民の自由と平等、圧制への抵抗権、国民主権、私有財産の不可侵などを定めます。

 

フランス人権宣言はルソーの影響アメリカ独立宣言の影響が見られます。ラ=ファイエットはアメリカ独立戦争に参加しているので、影響を受けているのは当然でしょう。

 

農民たちに対しては、封建的特権の廃止を決議します。これにより領主裁判権や教会に収める十分の一税が即時撤廃されました。しかし、領主に収める貢租は有償で廃止とされたため、不完全なものとなります。

 

ところが、ルイ16世は国民議会の決議を認めませんでした。さらに、凶作で小麦価格が高騰したことがパリ市民の怒りを呼びます。10月、パリの女性たちがヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王夫妻をパリに連行しました。これをヴェルサイユ行進と言います。

 

1791年、革命の勢いに恐れをなしたルイ16世は妻マリー=アントワネットの実家であるオーストリアへの亡命を図ります。しかし、国境付近の町ヴァレンヌでつかまりパリに引き戻されました。このヴァレンヌ逃亡事件のため、国王は国民の信任を失いました。

立法議会

(ヴァルミーの戦い:wikiより)

1791年憲法に基づいて召集されたのが立法議会です。立法議会では立憲君主制を主張するフイヤン派共和制を主張するジロンド派が対立しました。ジロンド派の内閣は革命に干渉するオーストリアに宣戦します。また、ルイ16世の王権を停止しました。

 

フランス軍は、攻めてきたオーストリア軍・プロイセン軍に敗北してしまいました。これを見た人々は革命政府を助けようと義勇軍としてパリに集まります。9月20日、ヴァルミーの戦いで、革命軍がはじめてオーストリア・プロイセン軍に勝利します。

国民公会

(マクシミリアン=ロベスピエール:wikiより)

立法議会の解散を受けて召集されたのが国民公会でした。国民公会は正式に王政を廃止。第一共和制が始まります。1793年、国民公会がルイ16夫妻の処刑を決行すると、周辺諸国は第一回対仏大同盟を結成し、フランスに圧力をかけました。

 

国内ではヴァンデーの農民反乱が勃発。国民公会に危機感が走ります。国民公会は行政や外交の全権を握る公安委員会を設置し権力を集中させました。また、保安委員会や革命裁判所を設置し反革命運動を取り締まります。

 

1793年6月、急進共和派であるジャコバン派は穏健共和派のジロンド派を国民公会から追放。ジャコバン派の指導者ロベスピエールが全権を握りました。ロベスピエールは公安委員会を中心にジャコバン派の独裁政治である恐怖政治を展開します。

 

権力を握ったロベスピエールは財産制限のない普通選挙などを定めた1793年憲法を制定。さらに、封建的貢租を無償廃止することを決定します。ほかにも最高価格令や徴兵制の施行、革命歴の採用などを行いました。

 

ロベスピエールらの急進的政策は次第に市民たちの支持を失います。いきなり徴兵として兵隊に来い、と言われたり値段の価格を自由に設定できなくなったりしますから、市民からしたらたまったものではないという形でしょう。

 

1794年7月、穏健共和派が中心となってクーデタを起こしました。テルミドールのクーデタ、テルミドールの反動とよばれるこの事件でロベスピエールは逮捕され、ギロチンで処刑されました。

総裁政府と統領政府

(ナポレオン=ボナパルト:wikiより)

1795年に制定された憲法により総裁政府が成立しました。総裁政府は5人の総裁による合議制です。そのため、指導力が弱く王党派の反乱や急進共和派のバブーフの陰謀などによって常に揺さぶられていました。

 

1796年、イタリア遠征で活躍しオーストリア軍に勝利したナポレオンは次第に名声を得て影響力を強めていました。1798年のエジプト遠征は失敗したものの人気は衰えません。1799年、ナポレオンはブリュメール18日のクーデタを敢行。政権を握ります。

 

ナポレオンは総裁政府を廃止し、統領政府を樹立しました。ナポレオンは3人いる統領のうち主席にあたる第一統領に就任。事実上の独裁権を認められました。

 

1802年、ナポレオンは第二回対仏大同盟に勝利し同盟を解散させることに成功。1804年にはナポレオン法典を発表し自分がフランス革命の正統な後継者であることをアピールしました。

第一帝政

(ナポレオン=ボナパルト:wikiより)

1804年、ナポレオンは国民投票によって皇帝に就任します。これにより第一共和政は終わり、第一帝政に移行しました。都市の資本家であるブルジョワジーも革命で土地を得た中小農民もナポレオンを支持します。

 

ベートーヴェンは、ナポレオンの皇帝即位を聞いて、交響曲3番の献辞の表紙を破り捨てたというエピソードもありますが、これは後の創作とも言われています。

 

ナポレオンの皇帝即位を知った諸国は第三回対仏大同盟を結成します。ナポレオンは中心国であるイギリスに攻め込みますが1805年トラファルガー海戦で敗北しイギリス上陸を断念します。イギリスの隻眼隻腕のネルソン提督が活躍します。

 

その一方、アウステルリッツ三帝会戦ではロシア・オーストリアに勝利。ドイツ諸国とライン同盟を結成し神聖ローマ帝国を消滅させました。プロイセンに対してもナポレオンは勝利し、ティルジット条約を結びます。このあたりがナポレオンの絶頂期でした。

 

1808年のスペイン反乱鎮圧に失敗したころからナポレオンの勢いは削がれます。1812年のロシア遠征の失敗はナポレオン弱体化の決定打となりました。1813年、諸国は第四回対仏大同盟を結成。ライプツィヒの戦いでナポレオンを破ります。

 

ナポレオンは皇帝を退位し、エルバ島に流されます。フランスではルイ18世によるブルボン朝が復活しました。ところが、ナポレオンはエルバ島を脱出。再び帝位につきました。

 

ナポレオンは再起をかけてイギリス軍、プロイセン軍とワーテルローで戦います。しかし、ナポレオンはイギリスのウェリントン将軍に敗北。今度は大西洋の絶海の孤島であるセント=ヘレナ島に流され、その地で生涯を終えました。

 

前回のアメリカ独立戦争の記事「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(アメリカ独立戦争)【近代編その5】」はこちら

 

 

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