絶対王政のヨーロッパの王位と戦争についてまとめて解説!【世界史B】

みなさんこんにちは。

 

今回のテーマは絶対王政時期のヨーロッパの戦争についてです。絶対王政とは、16~18世紀の君主(王様)が絶対的な支配権力をもつ政治体制のことを言います。

 

S先生
S先生
ざっくりいうと、封建社会で教会に権力が集中していた時期から市民革命で市民に権力が移る中間地点というイメージね!

 

さて、この時期ですが、地域の王朝、皇帝、戦争がごちゃごちゃになります。

 

正直、どこの国と戦ってどういう宗教戦争があって、こんがらがります。
たなか君
たなか君

という声が多数あります。そこで、今回は絶対王政時期の戦争や王などを地域ごとに整理していきたいと思います。基本的にはこの時期は縦の線で覚えていくと覚えていきやすいです。

 

今回の話については以下の表をまとめましたので参考にしてください。

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スペイン

(フェリペ2世:wikiより)

まず、スペインはハプスブルク家が力を持っており、フェリペ2世の時代に絶頂期を向かえます。

 

S先生
S先生
大航海時代によってスペインは強大な力を持って絶対王政時期に入るのでしたね。

 

そして、オランダ領はもともとハプスブルク家に属していました。このオランダ(ネーデルランド)では、プロテスタントのカルヴァン派が大いに流行ります。一方、当時、フィリペ2世はガチガチのカトリックでした。

 

そして、フェリペ2世のスペインがカトリック信仰をネーデルラントに強要したことから、1568年に独立に向けたオランダ独立戦争が始まりました。

 

S先生
S先生
宗教戦争としては、オランダ独立戦争、ユグノー戦争、ドイツ三十年戦争が有名ですね。

(スペイン=ハプスブルク家:wikiより)

最終的には後述する三十年戦争の講和条約である1648年のウェストファリア条約でネーデルラント連邦共和国として独立が国際的に承認されて終わりました。

 

S先生
S先生
オランダ独立戦争は1568年から数えると80年間にわたって戦われたので、八十年戦争とも言われるわ。

スペイン継承戦争について

スペインを支配していたスペイン・ハプスブルク家のカルロス2世は後継者を指名せずこの世をさります。結果、スペイン=ハプスブルク家は断絶します。

 

そこで、スペインの継承権を巡って争いが起こります。具体的にフランスのルイ14世が孫のフェリペ5世をスペイン王に即位させたことから、イギリスはオーストリアやオランダと同盟を組んで、フランスに宣戦布告し、スペイン継承戦争 (1701年〜1713年)が起こります。

 

特に、神聖ローマ皇帝でありオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世とブルボン家のルイ14世とが争うことになります。

(フェリペ5世:wikiより)

最終的にはオーストリア・ハプスブルク家の勢力が拡大するのを嫌ったイギリスやオランダなどは1713年ユトレイト条約が結ばれます。また、オーストリア・ハプスブルク家も翌14年にラシュタット条約を結んでスペインはフェリペ5世が統治することを認めました。

 

これにより、ブルボン朝がスペインで始まります。なお、フランスとスペインはユトレイト条約で併合されない条件でフェリペ5世の統治を認めているのでフランスのブルボン家とは一応区別しましょう。

イギリス

(エリザベス1世:wikiより)

イギリスは、百年戦争でフランスに破れ、さらに薔薇戦争で内乱が続きます。結果、国内の諸侯の力が弱体化し、国王の力が増します。

 

そこで、テューダー朝の時代、絶対王政がなされます。特に、エリザベス1世の時代は隆盛を誇り、スペインのフェリペ2世と戦います。1588年にスペインの無敵艦隊を破ったアマルダの海戦は有名です。

 

ここらへんの話については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(イギリス絶対王政と二つの革命)」が詳しいです。

イギリス絶対王政と二つの革命【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史【近代編その4】
こんにちは。今回も「受験に役立つヨーロッパの歴史」シリーズをはじめます。近代編も4回目となりました。今回のテーマは【イギリスの絶対王政と2つの革命】についてです。 今回は、バラ戦争以降にできたテューダー朝以降のお話です。テューダー朝はエリザ...

 

そして、エリザベス1世には子供がいなかったことから、王位が絶えスコットランドから王様を持ってきます。ステュアート朝の始まりです。

(ステュアート朝家系図)

スコットランドから来たジェームズ1世は王権神授説を唱え、イギリス議会と反発します。

 

さらに、反国王側として清教徒(ピューリタン)が台頭してきます。ピューリタン側のリーダークロムウェルらがピューリタン(清教徒)革命(1639年)を起こします

 

革命後、ジェームズ2世が王になるも議会が反発し名誉革命(1688年)が起こります。

 

ここの詳しい話は「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(イギリス絶対王政と二つの革命)」が詳しいのでこちらの記事もお読みください。

イギリス絶対王政と二つの革命【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史【近代編その4】
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その後、オランダからも王家は断絶し、ドイツから立憲君主的な王を持ってきます。そして、ハノーヴァー朝が成立します。

 

この時期は、立憲君主のため絶対王政ではないので(王の上に憲法という規範があるのが立憲君主)注意です。

 

そして、ハノーヴァー朝時代に、アメリカ独立戦争(1775年〜1783年)が起こります。

フランス

(イタリア戦争:wikiより)

フランスは百年戦争で勝利をしました。

 

その後、フランスのヴァロワ家とオーストリアのハプスブルク家との間の戦争が起こります。

 

フランスはヴァロア朝の下で統一しようとする一方で、神聖ローマを支配していたハプスブルク家はフランスの辺境に領土をもっており、領土問題でイタリア戦争(1494〜1559)が勃発します。

 

S先生
S先生
百年戦争が終わった後にまた百年間戦争するってフランスはつくづく戦争が好きなのね

 

この時代の流れや状況を知りたければ塩野七生先生の「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 」がおすすめです。バラバラになったイタリア側からの苦悩やチェーザレの統一の動きなど面白く、読後には若干の寂寥感と満足感を与えてくれること間違いなしです。

 

そして、フランスはイタリア戦争で敗北します。

ユグノー戦争について

その後、宗教戦争であるユグノー戦争(1562年 – 1598年)が起こります。

 

ドイツから始まった宗教改革がフランスに入り、プロテスタント(プロテスタントを「ユグノー」とカトリック教徒は呼びました)が大量虐殺されたことを契機に内乱が起こりました。

(サン=ヴァルテルミの虐殺:wikiより)

最終的には、ナントの勅令(1598年)を発し、プロテスタントに一定の制限の下ですが信仰の自由を認め、戦争は終結しました。

 

その後、ヴァロア朝は途絶えて、ブルボン家が王家を継承します。このブルボン家のアンリ4世からフランスは絶対王政が始まります。

(アンリ4世:wikiより)

そして、アンリ4世の子であるルイ13世はドイツ三十年戦争に参加し、ルイ14世がスペイン継承戦争を起こしたり、と諸外国に影響を与えます。

 

そして、ルイ16世の時にフランス革命(1789年)が起こり、絶対王政が潰えます。

神聖ローマ(ドイツ)

(カール5世:wikiより)

神聖ローマ帝国内においてルターを筆頭とする宗教改革が起こりました。詳しくは「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(宗教改革)」を読んでください。

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当時、神聖ローマ皇帝カール5世はカトリックを支持しておりプロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で1546年にシュマルカルデン戦争が起こりました。

 

そして、1555年のアウグスブルクの和議で帝国内でプロテスタントの信仰は許されることになります。(これは皇帝と諸侯との取り決めで教皇は積極的に認めたわけではありませんでした

 

三十年戦争について

ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に三十年戦争が勃発します。

 

プロテスタントとカトリックとの対立で最大の宗教戦争といわれます。

 

S先生
S先生
カトリック国のフランス王ルイ13世がプロテスタントを支援し、ハプスブルクVSフランスブルボン家の戦争の様相を呈していました。

ちなみに、イギリスはクロムウェルの時代で、イギリス国内の問題でいっぱいのため口出しはしてきません。

オーストリア継承戦争と七年戦争

神聖ローマ帝国は皇帝の力よりも諸侯に完全主権が与えられることになります。

 

特に、プロイセンのホーエンツォレルン家とオーストリアのハプスブルク家が対立していくことになります

 

オーストリアハプスブルク家のカール6世を最後に神聖ローマ皇帝が廃嫡します。カール6世の後をマリア・テレジアが継ぎますが、ハプスブルクの領土にプロイセンのフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)が乗り出してきて、両者が対立します

 

S先生
S先生
もともとは二人は婚約関係にあったんですけどね。

ちなみに、プロイセンではフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は絶対王政の君主ですが息子であるフリードリヒ2世は専制啓蒙君主ということをおさえておきましょう。

 

プロイセンとオーストリアがオーストリア継承戦争(1740年〜48年)を引き起こし、プロイセンが勝利します。

 

その後、オーストリアは失地回復するために七年戦争(1756年〜63年)を起こしますが、イギリス・フランスもここに参入しヨーロッパ中で戦争起こります。

 

そして、この戦いはヨーロッパにとどまらず、アメリカにも広まっていきます。七年戦争の植民地での英仏間の戦いが植民地のアメリカでフレンチ・インディアン戦争(1754年~63年)として起こります。

 

フレンチ・インディアン戦争では、イギリスが勝利しますが、その損失補填のためにアメリカの植民地に重税を課し、アメリカ独立戦争へとつながっていきます。

 

そして、その影響をうけたフランス革命へと繋がります。

 

オーストリア継承戦争→七年戦争→アメリカ独立戦争→フランス革命の順は覚えておきましょう!

ロシア

(イヴァン3世によるノヴゴロド共和国の破壊:wikiより)

リューリク朝のイヴァン3世は、キプチャク=ハン国を破り、分裂していたロシアを統一します。

 

しかし、廃嫡によりリューリク家が断絶してしまいます。

 

そこで、ミハエル・ロマノフがロマノフ朝をつくります。

 

その後、ロマノフ朝のピョートル大帝はスウェーデンと北方戦争(1700年〜21年)で戦い、バルト海の覇者となります。なお、これは、スペイン継承戦争とほぼほぼ同時期に起こりました。

 

S先生
S先生
西側でスペイン継承戦争があり東では北方戦争とこの時期は本当に戦争が多いわね。

まとめ

いかがだったでしょうか。ざっくりと絶対王政時期のヨーロッパについてまとめました。その後、1799年〜1815年にかけてナポレオンがヨーロッパ中に席巻します。

 

ナポレオン後のウィーン体制時代のヨーロッパもややこしいので「ウィーン体制から第一次世界大戦までの19世紀の欧米諸国の動向をまとめて解説!【世界史B】」にまとめました。そちらも併せてご覧ください。

ウィーン体制から第一次世界大戦までの19世紀の欧米諸国の動向をまとめて解説!【世界史B】
みなさん、世界史を勉強してナポレオン戦争後のウィーン体制の時期ってかなり混乱しませんか? 世界史の教科書は基本的には秀逸なものと思うのですが、私自身受験生だった時、ウィーン体制後から第一次世界大戦までの範囲はかなりわかりづらく混乱をしていま...

 

また、「これならわかる!ナビゲーター世界史B 3 近世の始まり~19世紀の徹底理解 」も解説が詳しいので通史をまとめて勉強する人にはおすすめです。

 

しっかりと復習をしてください。お疲れさまでした

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