こんにちは。今回も「受験に役立つヨーロッパの歴史」シリーズをはじめます。近代編も4回目となりました。今回のテーマは【イギリスの絶対王政と2つの革命】についてです。
今回は、バラ戦争以降にできたテューダー朝以降のお話です。テューダー朝はエリザベス1世の時に絶対王政を展開します。しかし、エリザベスの死後にできたステュアート朝では絶対王政への反発や宗教政策などで反発が強まり、2度も革命が起きてしまいました。
今回の展開について青山学院の問題が関連問題としてあるので、今回はそれを引用してみます。
イギリスではステュアート朝を開いた( 1 )が王権神授説を信奉して、議会を無視したために議会との対立を深めた。ピューリタン革命は王党派と議会派で戦われ、議会派の中には長老派と( 2 )があった。1651年、( 3 )のクロムウェルが発布した( 4 )は、イギリスの植民地貿易から外国船を排除したためにオランダの中継貿易に打撃を与えた。 ーー青山学院2月7日第2問一部改題
今回のポイントはこちらです↓↓。しっかりと理解しましょう。
今回の記事のポイント・ヘンリ7世とヘンリ8世の政策の違いに注意
・エリザベス1世のキーワードは絶対王政、統一法、重商主義
・ステュアート朝の王たちは名前が似ているので、区別して整理しましょう。
イギリス絶対王政
今回の話は、バラ戦争終結後にできたテューダー朝についてです。テューダー朝は王権が強い王朝でした。ちなみにバラ戦争については「【世界史B】受験生に役立つヨーロッパの歴史その15(百年戦争とバラ戦争)」で述べました。忘れた人は再度みてみましょう。
ヘンリ7世
(ヘンリ7世:wikiより)
1485年、バラ戦争に勝利したヘンリ7世はテューダー朝を開きました。戦争に勝ったヘンリ7世は強い王です。王に逆らうものたちは国王直属の裁判所である星室庁裁判所で裁かれました。
ヘンリ7世はジェノヴァ人カボットの北米探検を支援したことでも知られます。まれに聞かれるので、押さえておきましょう。
ヘンリ8世
(ヘンリ8世:wikiより)
ヘンリ8世は父親の政策を受け継ぎ、絶対王政を強化します。初めのころはカトリック教会と協調していたため、教皇レオ10世はヘンリ8世に「信仰の擁護者」という称号を与えました。
ちなみに、この教皇レオ10世は贖宥状を発布してルターの宗教改革のきっかけを作った人でしたね。「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(宗教改革)【近代編その3】」で詳しく記載してありますのでまだ読んでない人は読んでください。
そんな教皇と仲良しだったヘンリ8世ですが、王妃キャサリンの離婚問題をきっかけに教皇サイドと対立します。カトリックは原則離婚を認めませんが、教皇が「結婚無効」を宣言することで、事実上離婚可能でした。
しかし、教皇クレメンス7世は結婚無効宣言を拒否しヘンリ8世を破門します。離婚を認めなかったのですね。
これに対し、ヘンリ8世は1534年に首長法を制定し、イギリス国王をトップとするイギリス国教会の成立を宣言しました。ヘンリ8世はイギリス国内の修道院を解散させ、財産を地主階級であるジェントリに売り渡します。
離婚問題のために自分で宗教を作るとか行動力が半端ないですよね。ちなみに国民はヘンリ8世の決断を支持しましたが、「ユートピア」の著者であり大法官であったトマス=モアは反対します。ヘンリ8世はトマス=モアを処刑しました。その後、ヘンリ8世は次々と妃をかえ、6度も結婚します。
エドワード6世とメアリ1世
(メアリ1世:wikiより)
ヘンリ8世の死後、唯一の男子だったエドワード6世が即位します。しかし、エドワード6世はわずか16歳で病死しました。彼の時代、イギリス国教会の信仰規則である「一般祈祷書」が作られます。
エドワード6世の死後、あとを継いだのはメアリ1世でした。イギリス史上初の女王です。メアリ1世は母親がスペイン王女だったため、熱心なカトリック信者でした。彼女はスペイン王フェリペ2世と結婚し、カトリック復帰を目指します。
メアリ1世は反対派を火あぶりにするなど強引なカトリック復帰を図ったため、市民からは「ブラッディメアリ」(血のメアリ)とよばれ嫌われました。彼女の名はトマトジュースを使ったカクテルに残されていますね。
エリザベス1世
(エリザベス1世:wikiより)
メアリ1世の死後、妹のエリザベス1世が即位します。メアリ1世の横暴さを嫌ったイギリス国民はエリザベス1世の即位を歓迎しました。即位の翌年、1559年にエリザベス1世は統一法を制定。イギリス国教会の制度を確立し、イギリス宗教改革を完成させます。
エリザベス1世は新興の羊毛産業を保護・育成しました。商業を国が保護し、貿易黒字を目指す重商主義を採用し、イギリスを大いに発展させます。イギリスで強い力を持つ議会との調整も巧みに行い、安定した治世を実現しました。
さらに、エリザベス1世はラテンアメリカから銀を持ち帰るスペインの銀船隊を海賊のフランシス・ドレークらに私掠船に襲撃させます。また、オランダ独立戦争を支援しスペインとの対立を深めました。
メアリ1世の夫であるスペインのフェリペ2世は、プロテスタント支持である義妹エリザベス1世を異端の統治者と考えます。そこで、1588年、130隻の大船団を編成します。のちに無敵艦隊(アマルダ)とよばれる大艦隊をイギリスに派遣します。
エリザベス1世はドーヴァー海峡で無敵艦隊を迎撃。暴風雨の助けもあって、無敵艦隊を撤退に追い込みました。
エリザベス1世の時代、イギリスは積極的に海外に進出します。ローリーの北米ヴァージニア植民は失敗しますが、その後、アメリカ東部できる13州植民地の基盤を作りました。エリザベス1世の晩年にあたる1600年、東インド会社を設立し貿易を振興します。
イギリスの2つの革命
(クロムウェル:wikiより)
エリザベス女王の後、イギリスは王の力が強まります。特にフランスのボダンやボシュエが唱えた国王の権力は神から授けられたという王権神授説が流行します。ただ、王の権力が強まりすぎると議会側から待ったがかかります。
王権と議会側との権力の熾烈な争いについてみていきましょう。
清教徒革命
(清教徒革命ネイズビーの戦い:wikiより)
エリザベス1世は結婚しなかったため、スコットランド王のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝がはじまりました。ジェームズ1世は王権神授説をとなえ、議会と対立します。
(ステュアート朝家系図:世界の地図マップ)
次に即位したチャールズ1世も王権神授説を掲げ、ピューリタンを弾圧しました。1628年、議会は権利の請願を採択しますが、チャールズ1世は受け入れません。また、ジェームズ1世以上に議会と対立し、議会を10年以上にわたって開きませんでした。
1642年、チャールズ1世と議会の対立は決定的となり、内乱となります。反国王の中心勢力がピューリタン(清教徒)だったため、清教徒革命とよばれました。反国王軍はクロムウェルを中心に団結し、国王軍を打ち破ります。
勝利したクロムウェルはチャールズ1世を処刑して共和政を宣言。自らは護国卿として強い権力を握ります。クロムウェルはアイルランドやスコットランドも制圧しました。1651年にクロムェルが出した航海法は英蘭戦争の原因となります。
青山学院の問題の答え
一番最初にあげた、青山学院の解答ですが
1、ジェームズ1世 2、独立派 3、護国卿 4、航海法
が正解でした。理解できました?HIMOKURIは入試問題に合わせた解説が充実していますのでしっかりと読んでください。
名誉革命
(名誉革命:wikiより)
クロムウェルの死後、子のリチャードが護国卿となりますが議会運営に失敗します。議会はチャールズ2世を国王に迎え、王政復古を宣言しました。チャールズ2世はフランスのルイ14世と手を組んでカトリック復帰をもくろみました。
これに反発した議会は対抗策を打ち出します。一つ目は国教徒以外は公職につけないとする審査法の制定。もう一つは、逮捕状無しの拘束を禁止する人身保護法の制定です。
1685年に即位したジェームズ2世(チャールズ2世の弟)は兄以上に議会と対立します。議会はオランダからチャールズ1世の孫であるメアリ2世と夫のオラニエ公ウィレム3世(イギリス王としてはウィリアム3世)を迎えました。
これを知ったジェームズ2世は戦わずにフランスに亡命しました。一滴の血も流れなかったことから、名誉革命とよばれます。メアリ2世とウィリアム3世は議会が出した権利の章典を承認しました。
イギリスの絶対王政と2つの革命のまとめ
今回のステュアート朝以降の話について少し整理をするために表を作成しました。ぜひ活用してみてください。
次の記事は「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(アメリカ独立戦争)【近代編その5】」です。よければどうぞ。
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