【世界史B】洪武帝と永楽帝の明について受験で覚えておきたい4つのポイント【受験に役立つ中国史第11回】

こんにちは。洪武帝とは、明を建国した朱元璋の皇帝の名前で、彼は明の政治政策の基礎を作りました。

 

また、靖難の役の後、洪武帝の息子が永楽帝となり、鄭和に南海遠征をおこなうなど積極的な体外政策を行いました。

 

土木の変をきっかけに16世紀から17世紀にかけて、北虜南倭の外圧により明は苦しむことになり、一時的に張居正の一条鞭法などにより回復するも、張居正の死後、明は衰退してきます。

 

この流れにおいて、4つのポイントを流れとともに覚えておきましょう。

 

4つのポイントについて以下、まとめておきました。それでは、本文で明の洪武帝の建国から明の滅亡まで詳しく話をしていきます。

今回の記事で覚えるべきポイント・洪武帝は六部を直轄し、賦役黄冊や魚鱗図冊を作成、里甲制で農村を再編した。

・靖難の変に勝利して即位した永楽帝は積極的に対外進出を行った

・北虜南倭で苦しむ明は、一条鞭法を施行した張居正の改革で一時、力を回復した。

・張居正の死後、明の朝廷は東林派と非東林派の争いにより混乱した

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洪武帝による明の建国及び土台作り

(洪武帝:wikiより)

1368年、紅巾の乱の混乱を制した朱元璋は南京を首都とする明を建国します。朱元璋は元の時代に置かれていた中書省や宰相の制度を廃止し、行政機関である六部を皇帝直属とするよう改め、皇帝独裁を強めました。朱元璋はのちに洪武帝とよばれます。

洪武帝は明律・明令を制定し法制度を整備します。

 

さらに、一世一元の制を定めました。一世一元の制とは、皇帝1人につき年号を一つ制定する制度のことです。

 

また、洪武帝は紅巾の乱などにより疲弊した農村を再建するため、里甲制を定めます。里甲制では110戸を1里とし、その中で富裕なもの10戸を里長戸、その他を甲首戸として編成しました。

 

里甲制に編入されたのは自らの土地を持つ地主や自作農で、朱元璋は彼らに課税しました。

 

里長や甲首は戸籍台帳であり租税台帳でもある賦役黄冊を作成する義務を持ちます。

 

また、明では土地の所有者を確定させるために魚鱗図冊も作成されました。魚鱗図冊は土地所有者の記載が魚の鱗ような形ののためそのような呼び名になりました。

S先生
S先生
土地台帳は魚鱗図冊、租税台帳は賦役黄冊という組み合わせを忘れずに。土地と魚の鱗のイメージを覚えておきましょう。

 

洪武帝は軍制の改革にも乗り出します。洪武帝時代に制定された軍制度衛所制といいました。里甲制とは別に六部の一つである兵部が管轄する軍戸を制定します。軍戸一戸から一人の兵士を供出させ軍を編成しました。

 

洪武帝は統治において儒教、特に上下秩序を重んじる朱子学を重視します。1397年には、六諭を発布し民衆を教化しました。

 

海外貿易の面では、元代の自由貿易から一転し中国伝統の朝貢貿易に切り替えます。海上での自由貿易を制限・禁止する政策を海禁政策といいました。

 

朝貢貿易とは、周辺国が中国に貢物を献上し、かわりに中国皇帝が「恩恵」として多額の品物を下賜するというしくみです。日本が明と行った日明貿易は代表的な朝貢貿易ですね。

 

朝貢貿易では中国側の出費が多かったため、明の国力が衰退すると実行が困難になります。

靖難の役と永楽帝

(永楽帝:wikiより)

1389年、洪武帝が死去すると洪武帝の長男の子で孫にあたる建文帝が即位しました。まだ若い建文帝の側近たちは、皇帝の妨げにならないようにと有力な皇族の力を削ぐため、領地を削減しようとします。

 

これに反対したのが洪武帝の四男である燕王朱棣(しゅてい)でした。朱棣は北方警備の精鋭部隊を率いて1399年に蜂起します。

 

建文帝の軍を打ち破り、南京を占領。1402年に即位しました。この事件を靖難の役といいます。朱棣はのちに永楽帝とよばれました。

 

永楽帝は積極的に対外進出を図ります。1405年、永楽帝は宦官の鄭和に大艦隊を与え南海大遠征をおこなわせます。鄭和の船団はアフリカ東岸にまで達しました。

 

S先生
S先生
鄭和は、6回航海しています。

(鄭和の航海図)

また、永楽帝は1410年から5度にわたって宿敵であるモンゴル諸部族に対して出兵し、勝利をおさめました。

 

1421年、永楽帝は北方を重視し都を南京から北京に移します。また、北方民族の侵攻に備えて万里の長城を修築します。

 

国内制度の面では、洪武帝が作り上げた皇帝独裁の仕組みをさらに強化します。内閣大学士を設置し皇帝を補佐させます。

 

さらに、文化面では永楽帝は22,877巻、目録60巻、11,095冊からなる中国最大の類書である「永楽大典」を1408年に完成させました。

明の衰退

(倭寇:wikiより)

永楽帝の死後、明は北方民族に対して守勢の立場をとることが多くなります。きっかけは1449年の土木の変でした。時の皇帝、正統帝はオイラートのエセン=ハンと戦って敗れ、捕らえられてしまいます。遠征中の皇帝が異民族の捕虜となるのは前代未聞でした。

 

1550年、タタールアルタン=ハンは万里の長城を越え明の国内に侵入します。明の首都である北京を包囲しました。

 

明が苦しんだのはオイラートやタタールといった北方民族の侵入だけではありません。海岸部から攻撃してくる倭寇も頭痛のためでした。倭寇は日本人を主体とした海賊ですが、後期の倭寇には明の海禁政策に反発する中国人も多数参加。規模が拡大します。明が苦しんだ北方民族の侵入と倭寇の侵入をあわせて北虜南倭といいました。

16世紀後半に即位した万暦帝のもと、明の立て直しに着手したのが首席内閣大学士の張居正です。張居正は税を複雑化した両税法をあらため、土地税も労役税もまとめて銀でおさめさせる一条鞭法を施行します。

 

一条鞭法は農民に現物納ではなく銀納を要求するもので、農民は農産物を売って銀を手に入れ、それを納税しました。しかし、大商人などが農民の弱みに付け込んで農産物を安く買いたたいたため、各地で抗租運動が頻発します。

 

1582年、張居正が死去すると朝廷では東林派と非東林派の争いがおき、政治が混乱します。宦官の横暴もあって政治は腐敗しました。

 

1592年から98年にかけて、日本の豊臣秀吉が朝鮮出兵をおこないます。朝鮮は明に支援を要請。明は大軍を送って朝鮮を支援しました。しかし、これにより明の財政は悪化しました。

まとめ

紅巾の乱の混乱を制し明を建国した朱元璋は皇帝独裁の仕組みを作り上げました。靖難の役で勝利し皇帝に即位した永楽帝は積極的な対外進出を図ります。永楽帝の死後、北方民族の侵入や倭寇の侵入が激しくなります。

土木の変では正統帝がエセン=ハンの捕虜となりました。その後も明は北虜南倭に苦しめられ、次第に国力が低下します。次回は清についてのべていきます。今回はおつかれさまでした。

明の太祖朱元璋についてもっと詳しいエピソードを知りたければ「明の太祖 朱元璋 (中国歴史人物選)」がおすすめです。

前回の記事「元の社会・経済・文化について8分で解説!」はこちら

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コメント

  1. […] 1368年に朱元璋(しゅげんしょう)が元を滅ぼして明を建国しました。このあたりについては「【世界史B】洪武帝と永楽帝の明について受験で覚えておきたい4つのポイ…」を御覧ください。 […]

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