邪馬台国前後の後期弥生時代について解説(邪馬台国の場所も!)【日本史B 第4回】 

原始・古代

こんにちは。今回は引き続き弥生時代について語ります。

 

弥生時代の中期から後期になると、大規模な集落が作られ、有力者を葬る特別な墓が見られます。

 

文字を持たない日本の代わりに、弥生時代の日本の様子を描いたのが『魏志倭人伝』をはじめとする中国の歴史書でした。中でも、女王卑弥呼が治める邪馬台国の場所については九州説・畿内説・四国説などで論争が繰り広げられています。

 

今回は、弥生時代中期から後期について、遺跡や中国の歴史書などを中心にまとめます。

  • 環濠集落や高地性集落は弥生時代中期以降に出現した防御的集落
  • 九州の甕棺墓や支石墓、支配者の墓と考えられる方形周溝墓や墳丘墓は高出題率
  • 『漢書』地理誌で倭国が100余国に分かれていることが記録
  • 『後漢書』東夷伝で、「漢委奴国王」の金印や倭国大乱について記録
  • 『魏志』倭人伝の内容に基づき、邪馬台国九州説・近畿説・四国説などが唱えられた
  • 卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡を授かった
  • 卑弥呼の死後、壱与が邪馬台国の女王となった
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邪馬台国以前の弥生時代の集落や墓の遺跡

(吉野ヶ里環濠:wikiより)

弥生時代の中期以降、全国各地に環濠集落高地性集落が作られました。環濠集落とは、集落の周りに濠(環濠)を巡らせたもので、防御的な機能を持ちます。

 

高地性集落は、あえて生活に不便な山の上に作られた集落のこと。山の上は防御に最適なので、いざという時の「逃げ城」という役割があったのかもしれません。

 

弥生時代になると、縄文時代の屈葬だけではなく、全身を伸ばして埋葬する伸展葬が見られるようにありました。折り曲げず、まっすぐな状態の遺体を葬る土壙墓が一般的となります。

 

板状の石を箱のように組み立てて、遺体を埋葬する箱式石棺墓も作られるようになりました。

 

九州北部では甕棺(かめかん)よばれる大型の土器を使った埋葬が見られるようになります。甕棺の上に小さな石で支えられた大きな石をのせる独特の墓(支石墓)などもみられます。

 

そのうち、墓の周囲に濠を巡らせる方形周溝墓が登場しました。また、墳丘を持つ墳丘墓なども登場します。これらは、集落のリーダーが葬られたのでしょう。

 

弥生時代の遺跡については以下の地図を見て確認していきましょう。

弥生時代の遺跡地図

中国の歴史書に書かれた邪馬台国以前の日本

(漢委奴国王の金印:wikiより)

弥生時代、日本列島に住む人々は文字を持ちませんでした。日本人にかわって弥生時代の日本について記録したのは中国の歴史書です。

 

『漢書』地理誌には、紀元前1世紀ころ、倭国(日本)は100余国に分かれていたと記録されました。

 

『後漢書』東夷伝には、紀元後57年に倭の奴国の王が後漢に使者を送ってきたと記録しています。後漢の皇帝である光武帝は、「漢委奴国王」の金印を与えました。詳しくは「【世界史B】受験に役立つ中国史 (後漢から三国時代まで) 第三回」という記事を読んでみてください。

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また、『後漢書』東夷伝には、107年に倭国王帥升が生口(奴隷)160人を後漢の皇帝に献上したとあります。

 

さらに、『後漢書』東夷伝では、147年頃から189年頃まで、「倭国大乱」で互いに戦いを繰り返したと書かれました。環濠集落や高地性集落は「倭国大乱」に対する備えだったといえますね。

 

女王卑弥呼が治める邪馬台国はどこに?畿内説・四国説・九州説?『魏志倭人伝』の記述内容が生んだ邪馬台国論争

(魏志倭人伝:wikiより)

後漢が滅びた後、中国では魏・呉・蜀に分かれてしのぎを削る三国時代が到来していました。三国時代の歴史書を『三国志』といいます。

 

『三国志』の中の『魏志』、その中にある「倭人伝」(魏志倭人伝)に倭国についての記述がありました。

 

倭国は帯方郡(朝鮮半島にあった魏の領土)の沖にあると魏志倭人伝に記されています。文章の読み方によって、邪馬台国は九州にあったとも、近畿にあったとも読み取ることが可能だったので、邪馬台国の所在地をめぐって激しい議論が交わされました。

 

九州説をとる学者は、邪馬台国は九州北部の連合体だと考えます。一方、近畿説をとる学者は、邪馬台国はのちのヤマト政権につながる大規模な国家だと主張します。中には、四国説を唱える学者もいて、邪馬台国論争は未決着のままです。

 

また、『魏志』倭人伝には邪馬台国の女王卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡を送ったと書かれています。ほかにも、邪馬台国の役職や風俗、人々の暮らしなどについて詳細に記録されています。

(卑弥呼象)

『三国志』の次の時代の歴史書である『晋書』は、卑弥呼死後の邪馬台国について記録しています。それによると、卑弥呼の死後、男性の王が立つがうまくいかず、卑弥呼の一族と考えられる壱与(台与)が女王になることで国が収まったとありますね。

まとめ

日本で文字が使われる以前の弥生時代、日本の出来事を記録していたのは中国の歴史書でした。『漢書』地理誌や『後漢書』東夷伝には邪馬台国以前の倭国の様子が記されます。

 

邪馬台国について記録したのは『魏志倭人伝』。女王卑弥呼の存在や卑弥呼が魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号や金印・銅鏡を授かったことがわかります。

 

こうした中国の歴史書の記録と、発掘した弥生時代の遺跡の内容を照らし合わせる作業が行われ、環濠集落や高地性集落は倭国大乱と結びつくと考えられました。

 

しかし、邪馬台国の所在については九州説・近畿説・四国説などがありいまだに決着していません。

 

最後に日本史を全体的にわかりやすく理解するためには「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」がおすすめです。難関大レベルに出題されるレベルの深さはないですが、全体を理解し流れを頭に叩き込むにはおすすめの一冊です。ぜひとも一読をおすすめします。

 

前回までの記事は「弥生時代の文化・生活・水耕農耕・遺跡について解説【受験に役立つ日本史B 第3回】

弥生時代の文化・生活・水耕農耕・遺跡について解説【受験に役立つ日本史B 第3回】
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