こんにちは。今回から東南アジアの歴史の二回目です。大航海時代以降、ヨーロッパ諸国が東南アジア各地に進出。植民地化していきました。欧米列強は植民地でプランテーション農業を行い、熱帯性の商品作物を生産します。植民地とされた東南アジア諸国は第二次世界大戦後に独立を勝ち取りました。
前回までの話「東南アジアの歴史のまとめ(前編)【世界史B】」
今回の記事のポイント・欧米諸国は東南アジア各地を植民地化した
・欧米諸国は東南アジアでプランテーションを経営し利益を上げた
・ホセ=リサールやアギナルド、ファン=ボイ=チャウは欧米からの独立を目指したが失敗
・第二次世界大戦後、東南アジア諸国は欧米から独立
東南アジアの植民地化
(フランス領インドシナでの搾取:wikiより)
大航海時代が到来すると、ヨーロッパ諸国の船が東南アジアに来航するようになりました。1511年、ポルトガルはマラッカを占領し海峡を支配します。1641年にはオランダが、ポルトガルからマラッカ海峡の支配権を奪い取りました。
19世紀に入り、イギリスがマラッカ周辺に進出します。1819年、イギリスはシンガポールを買収し貿易港を作りました。このとき、イギリスはオランダと協定を結びます。協定によりイギリスはマラッカ海峡以北のマレー半島を、オランダがインドネシアを支配することが決まりました。
イギリスはオランダとの協定締結後、ベナン、マラッカ、シンガポールから成り立つ海峡植民地を成立させます。
19世紀、イギリスはインドの支配も行っていました。イギリスはインドと隣接するビルマの支配も狙います。1824年から1885年まで、イギリスはビルマのコンバウン朝と断続的に交戦します。1886年にビルマを英領インド帝国に併合しました。
ベトナムでは1802年に阮福映がフランス人宣教師ピニョーの協力により阮朝越南国を建国しました。その後、フランスはベトナムに介入し仏越戦争となりました。フランスは戦争後のサイゴン条約でベトナム南部のコーチシナの東部を獲得しました。
1863年、フランスはベトナムの隣国であるカンボジアの保護国化にも成功します。この動きに反発した劉永福は黒旗軍を率いフランスに抵抗しました。
1883年、フランスはユエ条約を締結。ベトナムを保護国化します。そして、1885年に清仏戦争に勝利しました。清国はベトナムの宗主権を失いました。その上でフランスは1887年にフランス領インドシナ連邦の成立を宣言します。1889年にはラオスも編入しフランス領インドシナを拡大します。
フィリピンは大航海時代にスペインに占領され植民地とされました。現在の首都であるマニラを建設したのもスペインです。1898年、スペインはアメリカとの米西戦争に敗北しました。フィリピンをアメリカに割譲しました。アメリカは1902年にフィリピンを植民地とします。
欧米による植民地経営
(コーヒープランテーション:wikiより)
東南アジアを植民地化した欧米諸国は、熱帯産の商品作物を生産させるためプランテーションを作りました。
プランテーションとは欧米諸国の企業が植民地で展開する大農園のことです。
また、インドネシアを植民地化していたオランダは1830~60年代にかけてジャワ島で強制栽培制度を実施してます。米作地の5分の1でサトウキビやコーヒーなどの指定作物を強制的に栽培させ、安価で買い上げていました。
海峡植民地やオランダ領インドネシア、スペイン領のフィリピンなどでは輸出用作物を栽培するプランテーション経営が優先されたため、住民の食料が不足がちになります。
そこで、フランス領インドシナやイギリス領ビルマ、独立国のタイでは輸出用の米生産が盛んになりました。
アジアの民族運動
(ホセ=リサール:wikiより)
欧米諸国による自国利益最優先の植民地経営に対し、東南アジア諸国では民族運動が盛り上がりました。
フィリピンではスペインに留学経験があるホセ=リサールが帰国後にフィリピン民族同盟を結成します。ホセは1896年に処刑されますが、革命運動は続きました。
1892年、秘密結社カティプーナンの主導権を握ったアギナルドは米西戦争でスペインと戦っていたアメリカの支援を受けて独立運動を展開します。しかし、米西戦争後にアメリカがフィリピンを植民地化するとアギナルドは逮捕されてしまいました。
インドネシアでは1911年にサレカット=イスラーム(イスラーム同盟)が結成され、オランダからの完全独立を求める運動を起こしました。
ベトナムでは日本にわたった経験があるファン=ボイ=チャウが独立運動の中心となります。ファンは日本に留学生を送るドンズー(東遊)運動を展開しました。
ファンがドンズー運動を展開したのは、日本が日露戦争に勝利しアジアの国でも欧米諸国に勝てることを証明したからです。日露戦争の勝利は東南アジア諸国やインドにも影響を与えました。
第二次世界大戦後の東南アジア
(スカルノ:wikiより)
第二次世界大戦直前、独立国はタイだけでした。太平洋戦争がはじまると、日本は東南アジア各国を占領します。
太平洋戦争後、日本の支配は終わり、再び欧米諸国が東南アジアに戻ってきました。東南アジア各国では植民地からの独立を目指す動きがおきます。
オランダ領東インドではスカルノがインドネシアの独立を宣言します。オランダとの間で戦争となりました。インドネシア独立達成後、スカルノがインドネシア初代大統領となりました。1968年、スカルノが政権を握ると1998年まで長期にわたってインドネシアに君臨します。
イギリス領だったマレー連合州は、マレーシア、シンガポールに分かれて独立しました。ミャンマーはインドから切り離され、1948年にビルマとして独立します。1988年に軍のクーデタがおき、ミャンマーと改称しました。
東南アジアの中で最も激しい戦火に見舞われたのがベトナムとカンボジアです。ベトナムではホーチミンがベトナム民主共和国の独立を宣言しました。これを認めないフランスとの間でインドシナ戦争となりました。
1954年、ジュネーヴ休戦協定が結ばれベトナムは北緯17度を境に北部にソ連が支援するベトナム民主共和国、南部にアメリカが支援するベトナム共和国が成立します。
1965年、アメリカ軍が北ベトナムを空爆したことからベトナム戦争がはじまりました。戦いは10年にわたって続きますが、北ベトナムの優位に展開。1973年にベトナム和平協定が結ばれ、アメリカ軍が撤退。1975年に南ベトナムが滅亡しベトナムは統一されました。
ベトナム戦争の余波を受けたのがカンボジアです。カンボジアではシハヌークを国王とするカンボジア王国が成立していました。しかし、ベトナム戦争の余波を受けシハヌークは追放されます。
その後、カンボジアは内戦状態に突入しました。内戦は米ソの対立などもあり長期化。1991年にようやく終結します。
まとめ
大航海時代にポルトガルやオランダが進出して以来、東南アジア各国は欧米の植民地とされ又。欧米諸国は植民地でプランテーションを経営し利益を上げました。
20世紀初め、東南アジアでは民族意識が高まり、欧米からの独立を試みますが失敗します。太平洋戦争で日本が東南アジアに進出。欧米の支配力が弱まりました。
第二次世界大戦後、東南アジア諸国は次々と独立を達成します。ベトナムは冷戦の舞台ともなったため戦争が長引きますが、1973年にベトナム戦争が集結。1975年には国家の再統一も成し遂げました。
前回までの話「東南アジアの歴史のまとめ(チャンパ王国から元とイスラム教の侵攻からマジャパヒト王国まで)【世界史B】」
コメント