こんにちは。【世界史B】受験に役立つオリエント史シリーズをはじめます。今回はカージャール朝イランとワッハーブ王国についてです。カージャール朝の場所はイランでワッハーブ王国の場所はアラビアにあります。
今回のざっくりとした内容ですが、トルコ系カージャール朝ですが、サファヴィー朝滅亡後に現在のイランに成立します。
ただ、カージャール朝はロシアやイギリスなどヨーロッパ列強国の圧力に苦しみます。一方、アラビア半島に成立した第一次ワッハーブ王国はオスマン帝国の指令の下、エジプトのムハンマド=アリーによって滅ぼされました。
現代にも繋がる内容もありますのでしっかりと理解するようにしましょう。ちなみに前回の記事は「【世界史B】受験に役立つオリエント史(近代のエジプトとエジプトの植民地化)」です。
今回の記事のポイント・サファヴィー朝の滅亡後、イランは不安定化
・18世紀末にカージャール朝がイランを統一。しかし、ロシアとの戦争に敗北
・カージャール朝に対する不満から、バーブ教徒の反乱やたばこボイコット運動が起きた
・原始イスラームへの回帰を訴えるワッハーブ派の王国はムハンマド=アリーに滅ぼされた
サファヴィー朝の衰退
(イスファハーン:wikiより)
17世紀、アッバース1世の登場により最盛期を迎えたサファヴィー朝は17世紀後半に入ると急速に弱体化します。
サファヴィー朝の歴史については、以前、受験に役立つオリエント史第7回「ティムール朝とサファヴィー朝」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。
1722年、アフガン人のギルザイ族が都のイスファハーンを攻め落とし、サファヴィー朝が滅亡します。その後も、いくつかの王朝がイランを支配しますが不安定な支配が続きました。
カージャール朝の創設とロシアの勢力拡大
(カージャール朝創始者のアーガー=ムハンマド:wikiより)
1787年、トルコ系カージャール族がテヘランを首都としてカージャール朝ペルシアを開きました。
カージャール朝はイラン各地の地方政権を滅ぼし、カージャール朝によるイラン全土の支配を実現します。
カージャール朝の創始者で初代シャー(王)はアーガー=ムハンマドです(上の画像を参照してください)。ちなみに、カージャール朝の首都テヘランは現在のイランの首都でもあります。
19世紀に入ると、ロシアは南下政策を推し進めました。南下政策については以前、受験に役立つヨーロッパの歴史「19世紀のロシアと南下政策」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。
そこで、カージャール朝の王たちはイギリスやロシアに便宜を与え、時には領土を割譲して王権を守ろうとします。ロシアの南下政策が強まり、第1次イラン=ロシア戦争が起きるとカージャール朝はロシアに大敗します。
大きく領土を失いました。カージャール朝の地図を記しておきますのでしっかりと場所は覚えておくようにしましょう。
1826年、カージャール朝はロシアと再び戦端を開きます。第2次イラン=ロシア戦争でもカージャール朝は敗北します。
1828年カージャール朝はトルコマンチャーイ条約でアルメニアの割譲とロシアに領事裁判権(治外法権)を認めました。
トルコマンチャーイ条約はカージャール朝とロシアとの不平等条約です。トルコマンチャーイ条約の語呂合わせを覚えておきましょう。
カージャール朝のトルコマンチャーイ条約の語呂合わせいやには(1828)る(アルメニア)領事(領事裁判権)のトルコマンチャーイ
また、カージャール朝はロシアの支援の下、1838年にアフガニスタンに侵略しようとしますが、イギリスに阻まれます。
要は、カージャール朝はロシアとイギリスによって不利な立ち位置におかれることになりました。
カージャール朝に対する民衆の不満
(水タバコ:wikiより)
ロシアやイギリスなどの欧州列強と戦って敗れ、不平等な条件を受け入れたカージャール朝に対し、イランの民衆は不満を貯めました。
そこで、1848年、カージャール朝は自身の宗派であるシーア派の分派であるバーブ教徒を弾圧しました。これに反発したバーブ教徒は反乱を起こします。
欧州列強の進出と理不尽な搾取、カージャール朝に対する不信感などが爆発したのが19世紀末におきたタバコ=ボイコット運動です。
原因はカージャール朝の外債依存でした。外国、特にイギリスからの債務を返済できなくなったカージャール朝はたばこ製造の専売権をイギリスに与え、借金返済の代わりにしようとしました。
酒を禁じられているイスラーム教徒にとって、数少ない嗜好品である「タバコ」が外国人の意のままにされることに対しイラン民衆は激しく怒ります。
このことを知ったシーア派のウラマー(イスラム教の法学者)や思想家アフガーニー(正式名サイイド=ジャマール=アッディーン=アル=アフガーニー)らは激しく反発しました。
ちなみにアフガーニーの宗派はスンナ派でしたが、彼はシーア派とスンナ派に関係なく両者のの垣根を超えてヨーロッパ列強に対抗しようとパン=イスラム主義を唱えます。
その結果、カージャール朝政府はイギリスにタバコ製造の専売権を与えることを断念します。しかし、多額の違約金が発生したので財政はさらに悪化しました。
その後、カージャール朝は後にパフレヴィー朝に滅ぼされます。
そして、パフレヴィー朝は現在のイランという国号になりました。現在のイランの原形がこのカージャール朝時代にできた形です。
なお、イランの女性運動の萌芽とされるカージャール朝のタージョッサルタネ王女が自身のいたハレムでの回顧録についての本があるのでよければ読んでみてください。
第1次ワッハーブ王国
(カーバ神殿:wikiより)
オスマン帝国が衰退するとアラビア半島でも独立の動きがみられるようになりました。オスマン帝国の衰退については、以前、受験に役立つオリエントの歴史第9回「衰退するオスマン帝国」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。
18世紀半ば、アラビア半島でワッハーブ(正式名:ムハンマド・
ワッハーブは、ワッハーブが生きた18世紀中ばのイスラーム教は神秘主義であるスーフィズムの影響で誤った方向に進んでいると指摘します。コーランとスンナ(慣行)だけをよりどころとした本来の信仰に立ち返るべきだと主張しました。
そして、1744年頃にワッハーブ派とサウード家でワッハーブ王国をアラビア半島で建国します。
アラビア半島という場所は、まさに聖地がある所ですね。そこで、ワッハーブとサウード家は1803年にメッカを、1804年にメディナを占領します。
このことを脅威に感じたオスマン帝国はエジプト総督ムハンマド=アリーにワッハーブ王国討伐を命じます。
ムハンマド=アリーについては以前、「近代のエジプトとエジプトの植民地化」に記載しました。ぜひ、こちらもお読みください。
1818年、近代化したエジプト軍はワッハーブ王国の軍に勝利します。
メッカ・メディナを奪還し、サウード家の拠点まで攻め落としました。
ワッハーブ王国は滅亡してしまいましたが、アラブ人の民族的自覚を促したという点で歴史的意義は大きいとされます。簡単に地図を上げておきますので位置関係をしっかりと理解しておきましょう。
また、ワッハーブ王国の語呂合わせとして以下のものを覚えておきましょう
ワッハーブ王国の語呂合わせいーな、しし(1744)が建国したがいやいや(1818)滅ぼされるぞ
ちなみに、ワッハーブ王国は、20世紀初頭に再興され1932年に国名をサウジアラビア王国としました。世界第2位の原油埋蔵量を持つ国として、またメッカ、メディナを有する国として世界経済に現在もなお影響力を有しています。
カージャール朝とワッハーブ王国のまとめ
オスマン帝国の弱体化やサファヴィー朝の衰退により西アジアに勢力の空白地帯が生まれました。エジプトではムハンマド=アリー、イランではカージャール朝、アラビア半島では第一次ワッハーブ王国が建国されます。
しかし、帝国主義を奉じるイギリス・ロシアなどはこれらの国々を抑圧し、保護国や植民地としていきました。
現在のイランであったり、サウジアラビアの原形にもなっているのでしっかりと理解して勉強していってください。今回は、ここまでです。もう少しでアジア史は終了です。お疲れ様でした。
次回は「フサイン=マクマホン協定などによる中東問題とパフレヴィー朝イランについて」です。
前回の記事「近代のエジプトとエジプトの植民地化」
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