古代エジプト(古王国、中王国、新王国)について【受験に役立つオリエント史(アジア史)第2回】

こんにちは。今回は受験生に役立つオリエントの歴史シリーズをはじめます。第2回は古代エジプトを取り上げます。古代エジプトは閉鎖的な地形のため、周辺諸民族が侵入しにくく、長期にわたってエジプト人の政権が持続しました。

 

古代エジプトの王朝は、古王国、中王国、新王国と別れます。これらで起こった事象をしっかりと覚えましょう!

 

たなか君
たなか君
古代エジプトは古王国→中王国→新王国と名前が簡単で覚えやすいですね!

 

S先生
S先生
あまーい!そのあと、アッシリア、アケメネス朝ペルシア、プトレマイオス朝エジプトまで知らないといけません。

 

また、ナイル川によってもたらされる豊かな土はエジプトの農業生産を支え、王朝の存続を可能にします。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」と表現しました。古代エジプトの歴史についてまとめます。

 

以下、今回使用する場所の地図です。首都の位置関係はしっかりと押さえるようにしましょう。それでは、始まり!

 

今回の記事のポイント・エジプトは閉鎖的な地形で独特の文化が育まれた

・古王国時代にピラミッドがつくられた

・中王国は騎馬と戦車の技術を持つヒクソスの侵入により衰退

・新王国のイクナートンは都をテル=エル=アマルナに遷都

・カデシュの戦いで新王国とヒッタイトが戦った

・エジプトはアッシリアやアケメネス朝ペルシアの支配を受けた

ちなみに前回の記事は「受験に役立つオリエント史(アジア史 第1回)【メソポタミアからヒッタイトまで】」でした。きちんと復習をしておきましょう。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

エジプトの地形的特徴

(ナイル川)

世界最長の河川であるナイル川。砂漠を貫流するナイル川の最下流部がエジプトです。ナイル川は定期的に氾濫します。ナイル川の水が引くと、エジプトの地には豊かな土が残されました。ナイル川の水が引いた後の土地をはかりなおすため、測地術が発達します。

 

エジプトは北に地中海、東西を砂漠に囲まれた閉鎖的な地形です。そのため、周辺民族の侵入が比較的少なく、エジプト独自の文明を育みました。神聖文字(ヒエログリフ)の使用や独特の太陽神を中心とする多神教ミイラの作成や「死者の書」などが有名です。また、太陽暦も発達しました。

 

古代エジプトは古王国時代、中王国時代、新王国時代、末期王朝の4つに区分されます。この間、31の王朝がナイル川流域に成立し繁栄しました。

 

都市国家ノモスと古王国時代(B.C.5000〜2000)

 

(ピラミッド:wikiより)

紀元5000ころ、ナイル川下流域のデルタ地帯で農耕と牧畜が始まります。すると、エジプト各地にノモスとよばれる小さな国が多数出現します。紀元前3000年頃、メネス王が上下エジプトを統一します。そこで、古王国時代が始まります。

 

古王国時代、エジプトの首都は下エジプトのメンフィスに置かれます。王であるファラオを中心とした中央集権国家がつくられました。古王国時代の象徴はギザの三大ピラミッド。クフ、カフラー、メンカフラーの3王の墓とされてきました。

 

古王国時代のエジプトは青銅器文明の段階にとどまっていました。古王国は首都メンフィスを中心として500年近く栄えますが、紀元前22世紀ころに王権が衰え衰退したと考えられます。

中王国時代とヒクソスの侵入(B.C.2000〜B.C.1500)

(チャリオット:wikiより)

古王国衰退後、地方豪族が台頭しエジプトは群雄割拠の時代となりました。最終的に南北二つの王朝ができ、南部のテーベを中心とする王朝がエジプトを再統一します。この時代を中王国時代といいました。

 

中王国時代の首都は上エジプトのテーベに置かれます。テーベは現在ルクソールとよばれ、多くの遺跡が存在することでも有名です。

 

紀元前2000年頃、オリエント全体の民族移動が激しくなるとシリア方面からヒクソスとよばれる異民族がエジプトに侵入します。ヒクソスは騎馬と戦車の技術でエジプト中王国を圧倒。ヒクソスは下エジプトからシリア・パレスティナにかけて支配しました。

エジプトの最盛期、新王国時代(B.C.15世紀~B.C.12世紀)

(ネフェルティティ:wikiより)

ヒクソスによる征服を免れたテーベを中心とする上エジプトはヒクソスに従いつつ、勢力を蓄えました。テーベを中心とする勢力はヒクソスの騎馬と戦車の技術を獲得します。ヒクソスと戦い彼らから下エジプトを奪還。エジプトを再統一しました。これにより、新王国時代が始まります。

 

紀元前15世紀、新王国の王トトメス3世はエジプトの領土を大きく拡大させます。紀元前14世紀、アメンホテプ4世は都テーベのアメン神官の力を抑える必要もあり、アトン神を中心とする宗教改革を行いました。

 

アトン神を唯一神と考えたアメンホテプ4世は、自らの名をイクナートンと改め都をテル=エル=アマルナに移します。そのため、イクナートンの宗教改革をアマルナ宗教改革、イクナートン時代の美術をアマルナ美術と呼びました。

 

アマルナ美術の特徴は写実的な描写です。それまで、エジプトの美術は死者の書や墓の壁画に見られるように、似た形の描き方が続けられていました。アマルナ美術では王や王妃の像であっても写実的にとらえています。イクナートンの妃であるネフェルティティの像がアマルナ美術の代表とされますね。

 

イクナートンが死去すると、アメン神官たちの巻き返しが始まります。若いツタンカーメン王はアメン神官団に押され、アメン神の信仰復活と都のテーベ帰還を実行します。アマルナ改革は失敗に終わりました。

 

紀元前13世紀、新王国の王、ラメセス2世はパレスティナ地方に進出。南下してきたヒッタイト軍と戦いますカデシュの戦いです。この戦いにエジプトは勝利します。シリア・パレスティナをエジプト領土とする世界最古の国際条約が結ばれました。

末期王朝と外来勢力によるエジプト支配

(アッシリア:wikiより)

紀元前12世紀、エジプトに海の民が襲来します。新王国は海の民をかろうじて撃退しますが、国力の衰退は避けられませんでした。新王国衰退後のエジプトの王朝を末期王朝といいます。

 

紀元前8世紀ころ、ナイル川上流の国人王国であるクシュ王国がエジプト全土を支配しました。紀元前671年、メソポタミアを制圧したアッシリアがエジプトに侵攻します。クシュ王国を追い払い、エジプトを支配しました。このあたりの記事について「受験に役立つオリエント史(アジア史) 第4回【アッシリア、アケメネス朝ペルシア、アレクサンダー大王】」に書かれていますので、読んでみてください。

 

アッシリアが短期間で滅亡するとエジプトでは末期王朝が復活します。アッシリア滅亡後、オリエント地域はエジプトを含む4王国が分立する時代を迎えました。4王国時代の地図は以下の通りです。

紀元前6世紀、イラン地域で成立したアケメネス朝ペルシアがメソポタミアからオリエントを統一します。エジプトもペルシアの支配下に入ります。

 

紀元前330年、アケメネス朝ペルシアがアレクサンドロス大王に滅ぼされると、エジプトもアレクサンドロスの帝国の一部となりました。アレクサンドロスの死後、プトレマイオスがエジプトで独立。プトレマイオス朝エジプトが成立しました。

まとめ

閉鎖的地形のため長期間文明を維持した古代エジプト。古王国時代のピラミッド建設や中王国を滅ぼしたヒクソス、新王国時代のアマルナ宗教改革は入試必出のテーマです。

 

連綿と続いた古代エジプトの王朝もオリエント統一という歴史の大きな流れには逆らえませんでした。最初はアッシリア、次にアケメネス朝ペルシアの支配を受けます。

 

アレクサンドロスの征服後に成立したプトレマイオス朝はギリシア人の王朝で、その滅亡後はローマ帝国やビザンツ帝国など大国の支配下に置かれます

次回の記事は「アッシリア以前の東地中海世界:フェニキア人、ユダヤ人、アラム人

前回の記事は「受験に役立つオリエント史(アジア史 第1回)【メソポタミアからヒッタイトまで】」でした。きちんと復習をしておきましょう。

また、より詳しく世界史Bを勉強したい人は「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」が読みやすくておすすめです。初学者はぜひ読んでみてください。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました