平将門の乱・藤原純友の乱など武士の成長について解説(問題演習つき)【日本史 第20回】

原始・古代

9世紀から10世紀にかけて、地方の開発領主たちは国司の収奪からの自衛や所領の拡大のため武装するようになりました。これが武士の始まりです。

 

武士たちは互いに争いながら成長していきました。10世紀中ごろにおきた平将門の乱や藤原純友の乱(承平・天慶の乱)は成長した武士の力を朝廷に思い知らせます。

 

11世紀に東北で起きた前九年・後三年の合戦で源氏は東国に勢力を拡大します。また、これらの合戦の結果、東北では奥州藤原氏が台頭しました。

 

今回は、武士の成長と題して平安時代後半に急成長した武士についてまとめます。さらに、今回のテーマが頻出ということもあり、実践的な演習問題をつけました。是非とも取り組んでください。

・荘園は初期荘園と寄進地系荘園にわけられる
・荘園は不輸の権や不入の権などの特権を持った
・地方では武士たちが成長し、源氏や平氏を棟梁とする武士団を形成した
・10世紀半ば、関東で平将門、瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こした
・11世紀半ば、前九年合戦がおき源頼義が安倍氏を滅ぼした
・11世紀後半、後三年合戦がおき源義家が清原氏の内紛に介入した
・清原清衡は藤原清衡と改名し、以後100年間、東北地方は奥州藤原氏が支配
スポンサーリンク
スポンサーリンク

荘園の発達

(荘園絵図:wikiより)

8世紀前半、日本では律令制度にもとづく公地公民制が実施されていました。8世紀中ごろになると、墾田永年私財法が制定され公地公民制が崩れ始めます。貴族や寺社は自力で土地を開墾し、初期荘園を形成しました。

 

8世紀後半になると口分田を放棄する浮浪や逃亡、戸籍を偽る偽籍、勝手に僧侶となって税負担を逃れる私度僧などが横行し、税を負担すべき人民が激減しました。

 

10世紀初め、醍醐天皇は延喜の荘園整理令をだして違法な土地所有の禁止や班田収授の復活を試みました。しかし、効果はなく公地公民制や租庸調制は崩壊してしまいました。

 

荘園が本格的に増加するのは11世紀以降です。地方で土地を開墾した地主(開発領主)は、国司から税を取られないようにするため自分の土地を免税特権をもつ権力者などに「寄進」し、開発領主自身は荘園を管理する荘官となりました。

 

開発領主たちは土地の所有権を権力者に譲ります。荘官は荘園領主に一定の税を納めるのと引き換えに、荘園を管理・支配する権利を認められます。

 

やがて、荘園は国司の使者の立ち入りを禁じる不入の権や税を免除される不入の件を獲得しました。こうした荘園を「寄進地系荘園」といいます。摂関家などを荘園領主とする寄進地系荘園は拡大していきました。

 

一国内で国司が支配する公領と荘園領主が支配する私領(荘園)が並立したため、この時代の土地のしくみを荘園公領制といいます。

地方の反乱と武士の成長

(那須与一:wkiより)

9世紀から10世紀にかけて、朝廷は一定額の税を治めさせることと引き換えに、国司に地方支配を一任するようになりました。朝廷に一定額の税を納めた後、残りの税収は国司の収入となりました。

 

国司となったものは自分の利益を増やすため各地で無理な徴税を繰り返しました。この結果、地方政治が乱れ各地で反乱が頻発します。

 

同じころ、地方では治安の悪化や国司の強引な徴税から自分の財産を守るため、開発領主などが武装するようになります。彼らは武士、あるいは兵(つわもの)とよばれました。

 

やがて武士たちは任地に土着した国司の子孫を中心に武士団を形成します。武士団は互いに争い、戦いながら勢力を強めました。血筋が天皇家につながる桓武平氏清和源氏の子孫をトップである棟梁とする大武士団も現れます。

 

成長した武士たちに対し、朝廷は都で滝口の武士として登用したり、地方の押領使・追捕使に任じて治安維持にあたらせるようにしました。

承平・天慶の乱

(平将門:wikiより)

地方で武士団が形成されると、争いはより大規模かつ激しくなりました。10世紀前半、関東で平氏一門による土地争いが発生します。争いの中で頭角を現したのが下総の猿島を根拠地とする平将門でした。

 

935年、平将門は一族の私闘にとどまらず、常陸国府を襲撃しました。これにより将門の行動は朝廷に対する反乱とされました。その後、将門軍は下野・上野の国府を攻め落とし新皇と自称し関東全域を手中に収めます。

 

朝廷は将門追討の命令を下し、討伐軍を関東に差し向けます。将門追討令に応じた平貞盛や藤原秀郷は将門軍と交戦。940年2月に平貞盛・藤原秀郷は平将門を討ち取りました。この戦いを平将門の乱といいます。

 

将門が東国で反乱を起こしていたころ、伊予の日振島を本拠地とした藤原純友が反乱を起こし、周辺の国府や大宰府を襲撃しました。941年、承平の乱を平定し東の脅威を取り除いた朝廷は純友討伐軍を西に差し向けます。

 

941年、大宰府を占領した純友軍に対し、追捕使小野好古率いる討伐軍が攻撃を開始。純友は博多湾で討伐軍に決戦を挑みました。結局、純友は博多湾での戦いに敗れ本拠地の伊予に潜伏していたところ捕らえられました。この乱を藤原純友の乱といいます。

平将門の乱と藤原純友の乱は承平・天慶年間に起きたため二つの乱をあわせて承平・天慶の乱といいます。

源氏の東国進出

(後三年合戦絵巻:wikiより)

9世紀から10世紀に描けて、東国、特に関東では桓武平氏が力を伸ばしていました。しかし、平将門の乱や11世紀前半の平忠常の乱以降は清和源氏の地盤となっていきます。

 

1051年、東北地方で安倍頼時が朝廷に対し反旗を翻し前九年合戦が始まりました。この時、陸奥守として反乱鎮圧にあたったのが源頼義です。頼義は出羽の清原氏の支援を受け、1062年に安倍氏を滅ぼします。

 

奥羽で最大勢力となった清原氏では家督をめぐる争いが起きます。1083年に陸奥守となった源義家(頼義の子)は清原氏の内紛に介入しました。これによって発生した戦いを後三年合戦といいます。

 

後三年合戦は義家の支援を受けた清原清衡が勝利します。清原清衡は陸奥押領使に任命され、名を藤原清衡と改めました。以後、清衡の子の基衡、基衡の子の秀衡が平泉を拠点として100年にわたり東北を支配します。彼らは奥州藤原氏とよばれます。

 

前九年・後三年合戦の結果、源氏は関東に根を下ろし東国武士団を郎党化することに成功しました。

入試問題を解く

武士が勢力を拡大する過程で起きた出来事を述べた次の文Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の①〜⑥のうちから一つ選べ。

 

Ⅰ 源頼信が、関東地方で起こった平忠常の乱を鎮圧した。
Ⅱ 源義朝が、京都での兵乱に東国の武士を動員した。
Ⅲ 源頼義が、前九年合戦に関東地方の武士を動員した。
① Ⅰ−Ⅱ−Ⅲ   ② Ⅰ−Ⅲ−Ⅱ   ③ Ⅱ−Ⅰ−Ⅲ
④ Ⅱ−Ⅲ−Ⅰ   ⑤ Ⅲ−Ⅰ−Ⅱ   ⑥ Ⅲ−Ⅱ−Ⅰ

 

 

 

解説

出題されているのは源氏の勢力拡大の整序問題です。平忠常の乱は10世紀前半におきた承平・天慶の乱のおよそ100年後にあたる11世紀前半に起きました。

 

源頼義は源義朝の父親です。よって、Ⅲ―Ⅱの順番は確定します。あとは、頼義が活躍した前九年合戦が11世紀中ごろだということがわかっていればⅠはⅢの前だということがわかります。

 

一つ一つの出来事の年代を覚えることも重要ですが、大まかに「何世紀の前半・中ごろ・後半」というとらえ方をすることが整序問題攻略の必勝法となります。簡単に流れをおさえておきましょう。

まとめ

武士が成長し始めたのは9世紀から10世紀のことです。地方では国司の徴税請負人化が進み、国司の収奪から逃れるため寄進地系荘園が発達します。

 

10世紀中ごろ、関東で平将門の乱、瀬戸内海で藤原純友の乱が発生しました。二つの乱をあわせて承平・天慶の乱といいます。朝廷は武士たちの力を利用し、反乱を鎮圧しました。

 

10世紀から11世紀にかけて、関東では桓武平氏の力が衰えかわりに清和源氏が勢力を拡大します。前九年合戦、後三年合戦をつうじ源氏は関東で勢力を拡大しました。また、東北地方では奥州藤原氏が台頭します。

 

荘園についてはないよう理解問題、武士が起こした欄については整序問題が良く出題されるのでしっかりと流れをつかみましょう。

 

日本史全体像を理解するには「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」がおすすめです。全体の流れが頭に入ってくるおすすめの一冊です。ぜひとも一読をおすすめします。

 

前回の記事「藤原道長・頼通による摂関政治の成立と地方政治の乱れ【日本史B 第19回】

藤原道長・頼通による摂関政治の成立と地方政治の乱れ【日本史B 第19回】
安和の変で源氏を退けた藤原北家は権力を独占しました。すると、北家内部での権力闘争が激しくなります。北家内部の権力闘争に勝利したのが藤原道長と頼通でした。 中央で人事権を持つ摂関家に権力が集中する一方、地方政治は国司に一任される...

 

スポンサーリンク
スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました