密教文化が花開いた弘仁・貞観文化【日本史B 第16回】

原始・古代

平安時代初期の100年間は、桓武天皇や嵯峨天皇をはじめとし、律令制度の立て直しが行われた時代でした。嵯峨天皇や清和天皇時代の年号を取り、この時代の文化を弘仁・貞観文化といいます。

 

平安京を中心とした弘仁・貞観文化は貴族たちを担い手として発展しました。仏教の世界では最澄と空海が中国から天台宗と真言宗を伝え、密教が流行します。

 

この時代の美術は密教の影響を濃厚に受けたものでした。今回は、密教を最大の特色とする弘仁・貞観文化について解説します。

 

  • 文化の担い手は平安京の貴族たち
  • 文章経国思想が強く、漢詩文が発達した
  • 密教の影響で山岳信仰が強まり、比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺が建立された
  • 最澄が開いた天台宗は、法華経を中心経典とし、弟子の円仁・円珍によって密教化
  • 空海が開いた天台宗は大日経や金剛頂経が中心経典
  • 真言宗は最初から密教中心
  • 密教美術の象徴は曼荼羅で、不動明王信仰が盛んにおこなわれた
  • 弘仁・貞観文化の時期に神仏習合の思想が生まれた
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弘仁・貞観文化の特色・特徴

(菅原道真:wikiより)

弘仁・貞観文化は平安時代初期の文化です。弘仁は嵯峨天皇時代の年号で、貞観は清和天皇時代の年号です。

 

弘仁貞観文化の担い手は貴族たちです。この時代は仏教で国を守る鎮護国家にかわり、文章経国思想が主流となりました。文章経国思想とは、漢詩文が国家経営の上で重要であるとする考え方のことです。

 

都で貴族の子弟たちが通う大学では、儒教を教える明経道が重視されていました。しかし、弘仁・貞観文化のころになると、漢詩文を教授する文章博士の地位が向上します。文章博士から右大臣へと異例の出世を遂げたのが菅原道真でした。

 

宗教面では、最澄・空海が中国から持ち込んだ密教が隆盛します。最澄は天台宗を、空海は真言宗を開き日本仏教にあたらしい風を吹き込みました。

弘仁・貞観時代の宗教

(高野山:wikiより)

奈良時代、日本の仏教は教学研究中心で南都六宗とよばれる学派が仏教研究を担っていました。遣唐使として中国に渡った最澄と空海は最先端の仏教である天台宗や真言宗を日本に持ち込みます。両宗派とも密教を取り入れて発展しました。

 

天台宗も真言宗も山岳仏教としての性格を持っていました。また、鎮護国家や現世利益を求める点でも共通しています。両宗派とも積極的に密教を取り入れ、加持祈祷を行いました。

最澄と天台宗

近江国に生まれた最澄は桓武天皇の朝廷に仕えた僧侶です。802年、最澄は遣唐使の一員に選ばれ804年に入唐しました。

 

入唐した最澄は805年に帰国します。帰国後、天台宗を開きました。天台宗の本山は比叡山延暦寺です。天台宗の中心経典は法華経でした。最澄は仏の前ではみな平等であるとする絶対平等を説きます。

 

最澄は朝廷に対し大乗戒壇設立を申請します。大乗戒壇とは正式な僧侶になるための儀式(授戒)を行う場のことです。最澄が大乗戒壇設立を訴えた著作が『顕戒論』でした。最澄の死後、朝廷は天台宗に大乗戒壇設立を認めます。

 

最澄死後の天台宗は弟子の円仁・円珍によって発展します。彼らは積極的に密教を取り入れました。天台宗の密教のことを台密といいます。

 

のちに、円仁の弟子と円珍の弟子が天台宗内で対立するようになりました。935年、円珍の弟子たちは延暦寺を出て園城寺(三井寺)に移ります。延暦寺に残った円仁の弟子たちは山門派、園城寺に移った円珍の弟子たちは寺門派と呼ばれるようになります。

空海と真言宗

讃岐国の郡司の家に生まれた空海は都にのぼり大学で学びます。793年、空海は山林での修業をはじめ出家したといわれますが、出家の正確な年代はわかっていません。

 

804年、空海は長期留学の学問僧として遣唐使の一員となり入唐します。長安で高僧の恵果から密教を学び、予定を大幅に短縮して806年に帰国しました。帰国後、空海は真言宗を開きます。

 

空海を保護したのは嵯峨天皇でした。嵯峨天皇は空海に高野山金剛峰寺や教王護国寺(東寺)を与えます。

 

真言宗は大日経や金剛頂経を中心経典とし、加持祈祷を行うことで現世利益が得られるとしました。また、秘密の教え(真言)で悟りを開くことができると説きます。

 

空海の代表的な著作は『三教指帰』です。空海は仏教が儒教や道教り優れていると説きました。また、『十住心論』では、悟りに至る過程を説きました。

 

加持祈祷や即身成仏の教えなど、現世利益的傾向が強い真言宗は皇族や貴族の指示を受け、日本国内での密教流行をもたらしました。真言宗の密教のことを東密といいます。

密教美術

(胎蔵界曼荼羅:wikiより)

密教を象徴するのが曼荼羅です。曼荼羅とはサンスクリット語の音訳で、仏の悟りの境地を表現したもので、仏の世界を構図化したものでした。

 

真言密教では金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅が描かれ、二つあわせて両界曼荼羅とよばれます。金剛界曼荼羅も胎蔵界曼荼羅も大日如来を中心として描きます。

 

9つのブロックに分かれて描き、大日如来は中央の上に描くのが金剛界曼荼羅、大日如来を画面中央に描き同心円状に諸仏・諸尊を配置するのが胎蔵界曼荼羅です。

 

この時代、盛んに信仰され描かれたのが不動明王でした。不動明王は密教における代表的な仏で、仏の敵を追い払うための怒りの表情で描かれます。

神仏習合

(僧形八幡神像:wikiより)

神仏習合は平安時代に広まった新しい考え方です。日本固有の神への信仰(神祇信仰)と中国から伝来してきた仏教信仰が融合して出来上がりました。

 

神仏習合の特徴は、神社の境内に神宮寺を建立することや寺院の境内で守護神を祀ることなど、神前で読経を行うことなどです。

 

神仏習合の象徴として有名なのが薬師寺の僧形八幡神像です。文字通り、僧侶の姿をした八幡神の像です。ほかにも、全国各地で僧形八幡神の絵画や神像がつくられました。

弘仁・貞観文化のまとめ

弘仁・貞観文化は平安京の貴族たち中心の文化でした。文章経国思想が強く、漢詩文が発達します。

 

宗教面では山岳信仰の影響を受けた天台宗と真言宗が発達しました。天台宗を開いた最澄は桓武天皇に比叡山延暦寺を与えられました。

 

真言宗を開いた空海は嵯峨天皇の信任を得て高野山金剛峰寺と教王護国寺(東寺)を与えられます。天台宗、真言宗ともに加持祈祷を行う密教をとりいれました。

 

弘仁・貞観文化の時代には密教の影響を受けた美術が盛んになります。その代表が曼荼羅でした。また、不動明王信仰が盛んになったのも密教の影響です。

 

加えて、日本の神と仏教の仏が融合する神仏習合が生まれたのも弘仁・貞観文化の時代でした。

 

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