安和の変で源氏を退けた藤原北家は権力を独占しました。すると、北家内部での権力闘争が激しくなります。北家内部の権力闘争に勝利したのが藤原道長と頼通でした。
中央で人事権を持つ摂関家に権力が集中する一方、地方政治は国司に一任されるようになります。国司たちは徴税請負人化し、地方の民衆は国司の横暴に苦しめられます。国司の中でもひどい政治を行ったものは郡司や民衆によって訴えられました。
今回は藤原道長・頼通に代表される摂関政治の成立と地方政治の乱れについて解説します。また、成功・重任・遥任・受領の意味の理解を問われるのでその違いも解説しました。
- 摂関政治とは外祖父(天皇の后の父)が摂政や関白として行う政治のこと
- 藤原北家内部の権力闘争に勝利したのは藤原道長・頼通
- 摂政や関白は人事権を持つことで他の貴族たちの上に立った
- 地方政治は国司に委ねられ、国司の徴税請負人化が進んだ
- 成功・重任・遥任・受領の意味を正確に覚えよう
- 国司の重い税負担に耐えかねた地方民衆はしばしば国司を訴えた
摂関政治の成立
(衣冠束帯:wikiより)
摂関政治とは、天皇が幼いときには摂政が、成人してからは関白が天皇の代理として行う政治のことです。
- 摂政:天皇に代わり政治を全面的に取り仕切る役職で、天皇が幼かったり病弱である場合に付く。諸説ありますが聖徳太子が最初の摂政と言われています。
- 関白:天皇の成人後のアドバイザー的存在で、最終的な決裁者は天皇にある。天皇と関白が協議などを通じて合意を図り政治を行う。最初の関白は藤原基経。
摂政や関白になるためには、天皇の外戚(妻の親族)である必要があるため、藤原氏は自分の娘を天皇の后とするため宮廷に送り込みました。
969年の安和の変で他氏を排斥した藤原氏は、藤原北家内部の権力闘争に明け暮れます。同時に、藤原北家の有力者は自分の娘を天皇の后にして、その子供の外祖父(母方の祖父)になろうとしました。
最終的に藤原北家内部の権力闘争に勝利したのは藤原道長・頼通父子でした。彼らは60年以上にわたって政権を独占します。
藤原北家内部の権力争いに勝利した藤原道長・頼通父子
(平等院鳳凰堂:wiki)
安和の変の後、藤原北家に対抗できる貴族はいなくなりました。かわって起きたのが北家内部の権力争いです。10世紀後半には藤原兼通と藤原兼家による兄弟争いが起きます。
(藤原氏の家系図)
次に起きたのが、兼家の子である藤原道長と兼家の長男道隆の子(兼家の孫)である伊周の争いです。道長と伊周は叔父と甥の関係になります。
この時、道長の娘である彰子と伊周の娘である定子が一条天皇の后となります。彰子には紫式部が、定子には清少納言が女房として仕えたことも有名です。
最終的に権力闘争に勝利したのは藤原道長でした。道長は彰子を一条天皇の中宮とし、ほかにも3人の娘を三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇の后とすることに成功しました。
道長は彼女たちが産んだ子の内覧・摂政として政治の実権を握ります。
内覧とは、摂関が不在の時に任命される役職で道長が任じられてから摂政・関白に準じる地位とされました。
摂関政治のしくみ
摂関政治の時代、国の重要な政治は陣定とよばれる公卿たちの会議で決められていました。会議の決定は天皇に奏上され、天皇は摂政や関白の意見を聞きながら決断を下します。天皇が幼いときは摂政が天皇のかわりに判断しました。
摂政・関白の強かった理由は役人の人事権を掌握していたからでした。そのため、良い役職に就きたい中・下級貴族は摂関家の機嫌を取ります。
摂関政治の特徴の一つに先例や儀式の重視がありました。
新しいことを決めるよりも「今までと同じ」に政治を進めることが大事だとされたのです。一方、地方政治は地方官である国司に一任してしまいました。
地方政治の乱れ
国衙の門(肥前国庁の門:wikiより)
地方政治では国司の権限が大きくなっていました。国司たちの中には強い権限をいいことに、私腹を肥やすものも現れます。中・下級貴族は国司に任命してもらうため、成功(じょうごう)を行いました。
国司に任命されたものの中には、任期のうちに蓄財しようと無理な税の取り立てを行う者もいました。これに対し、地方の郡司や百姓たちは朝廷に国司の非法を訴えます。
国司の徴税請負人化
摂関政治以前、地方政治の中心にいたのは地域の有力者である郡司でした。摂関政治のころになると、地方政治は国司に委ねられます。
すると、国司は「名」(徴税対象の田畑)に国衙(国司の役所)から税を取り立てる役人を直接派遣するようになりました。その結果、郡司は徴税から外されの地位が低下します。
国司たちは政治を任されるのと引き換えに、決められた税を朝廷に納めるよう求められました。国司が税の納入を請け負うようになったことを国司の徴税請負人化といいます。
これにより、国司は決められた額以上の税を自分の収入とすることが可能となりました。そのため、私腹を肥やして巨利を得ようとするものが後を絶たなくなります。
成功・重任・遙任・受領とは
国司になると一財産築けることがわかると、中・下級貴族たちは国司に任命されようと朝廷や人事権を持つ摂関家にアピールします。
具体的には、朝廷が行う儀式費用や寺院の建設費用を任命されたい貴族が「寄付」するようになりました。
貴族の「寄付」アピールが成功すると、その貴族は国司などの官職を得ることができました。これを成功(じょうごう)といいます。国司の任期を延長するため、さらに成功をおこない、再び官職に任じられることを重任といいます。
中には、国司に任命されても自分は居心地の良い都から動かず、代理人を派遣して税だけを取り立てるものすら現れます。国司が赴任せず、収入のみを得ることを遥任といいました。国衙で国司の代理として政治を行う役職が目代です。
遥任せず、ちゃんと赴任した国司の中で一番上位のものを受領(ずりょう)といいます。受領は国の力を背景に地方で強い権限を振るいました。
国司の不正に対する郡司や百姓の訴え
多額の「寄付」をして国司になったものたちは、元を取ろうと任国で郡司や農民に重い税をかけるようになります。
それから逃れるため、郡司や農民たちは非法な徴税をする国司たちを訴えるようになりました。
988年に尾張国の郡司や百姓たちは尾張守藤原元命を訴えました。その時に書かれた訴状が「尾張国郡司百姓等解」です。
元命は翌年に解任されますが、国司たちの非法な収奪は後を絶ちませんでした。
まとめ
他氏排斥に成功した藤原氏は、内部で摂政関白の地位をめぐる権力闘争に明け暮れました。その中で最終的に勝利したのが藤原道長・頼通父子です。彼らが主導した摂関政治は陣事件を用いて他の貴族たちを従わせる政治でした。
摂関政治は前例を守ることが重視されます。また、地方の政治については国司に一任し税を都に送ればそれでよしとしました。そのため、徴税請負人化した国司の中には地方で過酷な税の取り立てを行い訴えられるものも現れます。
中・下級貴族たちは経済的に利益が得られる国司になろうと、成功を盛んに行いました。成功を繰り返し重ねて国司に任命されることを重任といいます。中には自分が人国に赴かず、目代を送り込む遥任を行う者も現れました。
地方政治の乱れは次の時代の武士の台頭を引き起こす原因ともなります。
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前回の記事「平安時代の国風文化(藤原文化)について解説!【日本史B 第18回】」
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