天平文化は奈良時代の文化です。天平文化の特徴は遣唐使によってもたらされた盛唐文化の影響を強く受けた国際色豊かな文化だということです。
(奈良時代の東アジア)
仏教の力で国を守る鎮護国家を重視した聖武天皇は諸国に国分寺や国分尼寺を建立。唐代には盧舎那仏を造立するなど仏教重視の政策を展開しました。
また、「記紀」などの歴史書、地誌である『風土記』が編纂されたのも天平文化の時代です。古墳時代や飛鳥時代に日本に入ってきた中国風の文化が日本に根付いたのが天平文化の時代だといえるでしょう。
今回は、天平文化の特徴について解説します。
天平文化とは?天平文化の特徴を解説
(唐招提寺:wikiより)
天平文化とは奈良時代(8世紀初頭から8世紀末)に栄えた文化のことです。聖武天皇や光明皇后、貴族たちが担い手となった文化で、唐の影響を受けた仏教文化でした。
天平文化が最も栄えたのは奈良時代中頃の聖武天皇の時代です。
聖武天皇の時代に覚えておくべきこととして
- 長屋王の変、藤原広嗣の乱
- 政情不安を取り除くために諸国に国分寺や国分尼寺を建立
- 行基の協力のもと東大寺の盧遮那大仏を造立
- 墾田永年私財法
などがありました。
ちなみに、聖武天皇の妻である光明皇后が孤児や貧民を救済する施設である悲田院(ひでんいん)や、薬を与える施設施薬院(せやくいん)を設けたことも覚えておきましょう。
また、天平文化は遣唐使によってもたらされた盛唐文化の影響を強く受けます。そのため、国際色豊かな文化となりました。
天平文化と国風文化・飛鳥文化の違い
天平文化以前の飛鳥文化は、日本が積極的に大陸文化を取り入れ始めたころの文化でした。
仏像彫刻にしても、建造物にしても大陸文化を直輸入したものが中心で、ギリシアやインド文化との共通性も見られます。
天平文化は、飛鳥文化と天平文化の間に生まれた白鳳文化と同じく、中国の唐の影響を色濃く受けます。
白鳳文化が初唐の力強い文化の影響が強いのに対し、天平文化は成熟した盛唐文化の影響を強く受けました。
平安時代中期の国風文化では、大陸文化の直輸入ではなく日本独自の文化が発達します。その背景には、遣唐使が廃止されたことがあるでしょう。
それまでの飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化で摂取した大陸文化を日本の風土に合わせて適応させたのが国風文化だといってもよいでしょう。
以上の事を簡単に表にまとめました。勉強の参考にしてください。
国家仏教の展開
(盧舎那大仏:wikiより)
奈良時代の仏教は、国によって保護される国家仏教でした。仏教の教えにより国を守ろうと考えたからです。こうした仏法によって国の安泰を祈願することを鎮護国家といいました。
鎮護国家のために読まれた三つの経典を護国三部経といいました。護国三部経は『法華経』、『仁王経』、『金光明経』の3つです。
国のための仏教だった奈良時代の仏教は、国による保護と統制を受けます。国は国分寺や国分尼寺を建立し、奈良の東大寺には盧舎那仏(大仏)を造立し鎮護国家を祈願しました。
また、奈良時代の仏教は学問的な性格を持ち、南都六宗とよばれた諸派は仏教理論、学派と考えるべきでしょう。一つの寺に六宗すべてが整っていることもありました。
僧侶に対しては僧尼令を制定し統制しようとします。しかし、僧侶になると免税得点を得られることから勝手に僧侶となって脱税することが横行しますこういう僧を私度僧といいます。
朝廷は僧侶が守るべき戒律を定めるため、中国から鑑真を招きました。鑑真は6度の渡航失敗と失明という試練を乗り越え日本にたどり着きます。
来日した鑑真は正式な僧侶になるための戒律のしくみと、戒律を受ける場としての戒壇の設置を行いました。朝廷は鑑真に新田部親王の旧宅地を与えます。その地に建てられたのが唐招提寺でした。
国史(紀記)の編纂と地誌について
(日本書紀:wikiより)
飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本の歴史をまとめる事業が行われました。歴史の編集事業が始まったのは天武天皇の時代です。
712年、日本最古の歴史書である『古事記』が編纂されました。稗田阿礼が暗唱していたものを太安万侶が文字として記録し、元明天皇に献上します。神々の時代から推古天皇のころまでの事績を扱いました。
720年、舎人親王らの手によって『日本書記』が編纂されます。『古事記』よりも詳細で、神々の時代から持統天皇までを編年体(出来事が起きた順を追って記録する書き方)で記録しました。異説や異伝を載せるなど、客観的な史書と評されます。
『古事記』と『日本書紀』は二つあわせて「記紀」と呼ばれるようになります。
713年、朝廷は諸国に産物・地理・伝承などを記した『風土記』を編集するように命じました。現存するのは『出雲国風土記』など5つに過ぎませんが、古代の地誌を知るうえで非常に貴重な史料となっています。
天平文化時代の文学について
(万葉集:wikiより)
天平文化は遣唐使の影響を受けた文化でした。そのため、中国から伝来した漢詩が重要視されました。天平文化を代表する漢詩集は『懐風藻』です。
『懐風藻』は天智天皇時代から奈良時代にかけての漢詩人64人と漢詩120首を収めた現存する最古の漢詩集です。
その一方、天平文化の時代には漢字の音訓を組み合わせて日本語を記録する「万葉仮名」が用いられました。万葉仮名で書かれた日本最古の和歌集を『万葉集』といいます。
『万葉集』には上古の時代から奈良時代後期までの和歌4,500首以上が収録されました。宮廷歌人の歌だけではなく、東国の人々が詠んだ東歌や防人に向かう兵士が詠んだ防人歌、地方の農民が詠んだ歌なども収録されています。
天平美術について
(法隆寺夢殿:wikiより)
奈良市や斑鳩町などには天平文化時代の貴重な建造物が残されています。
奈良県斑鳩町にある法隆寺伝法堂は聖武天皇の夫人である橘古那加智の邸宅を移築したもので奈良時代の貴族の邸宅を知る貴重な建物です。
法隆寺夢殿は厩戸王(聖徳太子)ゆかりの地である斑鳩宮跡に建てられた法隆寺東院伽藍の建物の一つです。夢殿の本尊は厩戸王と同じ等身でつくられたとされる救世観音像です。
奈良市にある唐招提寺金堂は奈良時代に建てられた寺院の金堂の中でただ一つ現存しているものです。堂々としたたたずまいは天平建築を代表する建物とされました。
同じ唐招提寺にある唐招提寺講堂は平城宮にあった東朝集殿を移築・改造したものです。平城宮の建物を知る上で貴重な史料となりました。
天平文化を象徴する建物といえば、何といっても奈良市にある東大寺正倉院でしょう。
聖武天皇の死後、光明皇后が聖武天皇の遺品を収めるためにつくった建物です。校倉造とよばれる独特の構造を持っていることでも知られます。
天平文化のまとめ
天平文化は盛唐の文化を受けた国際色豊かな文化でした。天平文化の担い手である聖武天皇が最も力を入れたのが国家仏教(鎮護国家の仏教)で国を守ることです。
諸国に国分寺や国分尼寺を建立し、東大寺に盧舎那仏(大仏)を造立した聖武天皇の時代、中国から高僧鑑真を招いて僧侶たちの戒律のシステムを整えます。
中国にならい『古事記』や『日本書紀』が編纂されたのも天平時代でした。『風土記』や『懐風藻』、『万葉集』も天平文化を代表する作品です。
奈良時代の建物は現存しているものが少ないです。法隆寺や唐招提寺、東大寺の正倉院などは現存する数少ない貴重な遺構で奈良時代の建物を知るうえで重要です。
前回の記事「奈良時代の政治とは?奈良時代をざっくりと解説【日本史B 第13回】」
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