今回は、引き続きオスマン帝国の歴史について講義を行います。16世紀に最盛期を迎えたオスマン帝国は、17世紀後半に衰退期に入ります。
このオスマン帝国の衰退のきっかけを作ったのがカルロヴィッツ条約です。
カルロヴィッツ条約とは、1699年にオスマン帝国がオーストラリア、ポーランドなどと結んで、オスマン帝国がハンガリーなどの領土をオーストリアに割譲した条約です。
カルロヴィッツ条約の後、オスマン帝国の領土が徐々に失われていきオスマン帝国の滅亡のきっかけになりました。
その後、オスマン帝国は西欧に追いつくためタンジマートやアジア初の憲法であるミドハト憲法などの改革を実行しますがいずれも失敗に終わり、第一次世界大戦に同盟国側で参戦したオスマン帝国は敗北します。
そして、ケマルによるトルコ革命でスルタン制が廃止され、オスマン帝国は滅亡しました。ケマルはローザンヌ条約によりトルコの領土を確保し、トルコ共和国の初代大統領になります。
オスマン帝国の衰退について、受験でも聞かれるので理解をしておけば他の受験生と差がつく範囲です。しっかりと理解して受験を勝ち抜きましょう!!
今回の記事のポイント・カルロヴィッツ条約でハンガリーを失った後、オスマン帝国は守りに入る
・タンジマートもミドハト憲法も失敗に終わった
・青年トルコ革命で混乱したオスマン帝国は次々と領土を失った
・ケマルはギリシアとの戦いに勝利し、セーヴル条約を破棄。ローザンヌ条約を締結
オスマン帝国の衰退の始まり
(第二次ウィーン包囲:wikiより)
1683年、オスマン帝国は再びハプスブルク家の本拠であるオーストリアのウィーンを包囲しました。(第二次ウィーン包囲)
しかし、この第二次ウィーン包囲は失敗してしまいます。オスマントルコは第二次ウィーン包囲後もオーストリアとの戦争をしましたが、自軍内に反乱が起きて敗北し、カルロヴィッツで講和条約を結びました。
敗れたオスマン帝国はカルロヴィッツ条約でハンガリー、トランシルヴァニア、スロヴェニア、クロアティアを失いました。そして、オーストリアのハプスブルク家の力がこれにより増していきました。
18世紀に入るとオーストリアやロシアの圧迫によって領土が縮小し始めます。特にロシアの南下政策はオスマン帝国にとって大きな脅威となりました。ロシアは黒海沿岸に進出しクリミア半島を支配下に置きます。
オスマン帝国の改革と停滞
(ミドハト憲法による議会:wikiより)
フランス革命と同じ時代のスルタンであるセリム3世は帝国の近代化に着手しました。しかし、保守派の抵抗により改革は遅々として進みません。1826年、マフムト2世は改革に反発するイェニチェリ軍団を解散します。
オスマン帝国の中枢が改革によって混乱する中、ナポレオンがエジプト遠征を敢行します。オスマン帝国の支配力が弱まった隙に、ムハンマド=アリーがエジプトの支配権を奪取しました。ムハンマド=アリーはオスマン帝国と2度にわたって戦いました。詳しくは次回の「近代のエジプトとエジプトの植民地化」の記事を読んでください。
帝国が縮小していく中、危機感を感じたアブデュルメジド1世はギュルハネ勅令を発布しタンジマートとよばれる改革を開始します。ムスリムと非ムスリムの法の下の平等や政治や軍事の近代化を図ります。しかし、これも保守派の抵抗により失敗に終わりました。
1853年、ロシアのニコライ1世はオスマン帝国に宣戦布告します。クリミア戦争が始まります。以前、受験に役立つヨーロッパの歴史シリーズでクリミア戦争について記載しました。是非「19世紀のロシアと南下政策」をお読みください。
1876年、アブデュル=ハミト2世の宰相ミドハト=パシャはアジアで初の憲法となるミドハト憲法を制定します。議会の開設や責任内閣制などが採用され、ムスリムと非ムスリムの完全平等などが決まります。しかし、露土戦争を理由に憲法はわずか1年で停止されました。
青年トルコ革命
(エンヴェル=パシャ:wikiより)
1889年、西洋思想に触れた軍人や知識人がオスマン帝国の近代化を目指して行動を起こします。彼らのことを「青年トルコ」といいました。青年トルコはアブデュル=ハミト2世の専制政治を止めさせようと動きます。
1908年、日露戦争などに刺激された青年トルコはクーデタを行いアブデュル=ハミト2世を退位させました。これが、青年トルコ革命です。しかし、革命はオスマン帝国に混乱をもたらしてしまいます。その隙をついて、周辺諸国がオスマン帝国領に攻め込みました。
この点について「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(オスマン帝国の縮小とバルカン問題)」をみてください。
オーストリア=ハンガリー帝国はボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合します。オスマン帝国内の自治国だったブルガリアが完全独立します。リビアをめぐるイタリア=トルコ戦争、バルカン諸国による第一次バルカン戦争など戦争が起きるたびにオスマン帝国領土は縮小しました。
1914年、青年トルコは政権を完全に掌握し軍部独裁を推し進めます。青年トルコ政権は第一次世界大戦に同盟国として参戦。敗北してしまいました。
ケマルによるトルコ革命
(ケマル:wikiより)
1918年10月、連合軍はイスタンブルを占領します。青年トルコ政権が崩壊しました。このころ、シリアにいたムスタファ=ケマルは連合軍への降伏を拒否します。戦闘を継続していました。
1919年5月、イギリスの支持をとりつけたギリシアはエーゲ海沿岸のイズミル地方に上陸します。ギリシアとトルコは戦争状態に突入します。ケマルは1920年4月にアンカラでトルコ大国民議会を招集しトルコ側の団結をはかります。
イスタンブルに残されたスルタンのメフメト6世は連合国とセーヴル条約を締結しました。この条約は領土の多くを喪失する過酷な内容です。ケマルはセーヴル条約を認めず戦争を続行しました。
以前、受験に役立つヨーロッパの歴史シリーズでセーヴル条約について記載しました。是非「ヴェルサイユ体制とワシントン体制」をお読みください。
https://wearewhatwerepeatedlydo.com/eropian-history32
1921年、ケマルはギリシア軍に大勝し形勢を逆転させます。その後、ケマルはフランスやソヴィエトの支援を受けて勢力を拡大させました。
1922年、トルコ大国民議会はスルタン制の廃止を決定します。メフメト6世はイギリスに亡命しオスマン帝国は滅亡しました。1923年7月、ケマルは連合国とローザンヌ条約を締結します。セーヴル条約で失った領土の多くを取り戻し、現在のトルコの国境線を確立します。
トルコ共和国の初代大統領となったケマルはイスラーム暦の廃止や女性の解放、アラビア文字の廃止とローマ字の採用、法律の西洋化などを実施しました。
オスマン帝国の衰退のまとめ
17世紀以降、衰退を重ねたオスマン帝国はどんどん縮小していきました。カルロヴィッツ条約でハンガリーを失ったことが最初のきっかけといっていいですね。その後、ロシア帝国の南下政策で標的にされ、国内諸民族の反乱などでさらに縮小。
タンジマートやミドハト憲法などの改革は失敗に終わりました。一発逆転を狙った青年トルコ革命も失敗。第一次世界大戦の敗北でオスマン帝国は事実上滅亡しました。崩壊寸前のトルコを救ったのがケマルです。ケマルはトルコに侵入してきたギリシア軍を撃退。連合国と再交渉しローザンヌ条約締結にこぎつけました。
オスマン帝国の歴史を通史的に知りたければ「オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)」がおすすめです。新書ということもあり一気に読むことができます。
次回は「近代のエジプトとエジプトの植民地化」についてです。
前回の記事「【世界史B】受験に役立つオリエント史(オスマン帝国の拡大)」
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