こんにちは。今回も受験生に役立つヨーロッパの歴史シリーズをはじめます。
前回は、帝国主義について各国の植民地化政策について学びました。詳しくは「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(帝国主義の成立とアフリカの植民地化)【近現代編その7】」を見てください。
今回の近現代シリーズ第8回はオスマン帝国の縮小とバルカン問題を取り上げます。かつてはヨーロッパを震え上がらせたオスマン帝国は19世紀後半から20世紀初頭にかけて「瀕死の病人」とすらいわれます。
オスマン帝国が弱まることでバルカン半島では各民族の独立運動が活発化。第一次世界大戦の原因の一つとなりました。今回は、オスマン帝国の縮小とバルカン問題について解説します。
今回の列強国についての地図です。地理関係を確認しながら読んでください。
・19世紀のオスマン帝国は衰退期。ギリシアやエジプトの自立で領土縮小
・タンジマートやミドハト憲法は失敗。
・青年トルコ革命でオスマン帝国は混乱。弱体化が進む
・バルカン半島ではパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義が激突
・バルカン戦争は第一次と第二次で国の組み方が違うことに注目
・第一次バルカン戦争ではトルコが、第二次バルカン戦争ではブルガリアが敗北した
オスマン帝国の縮小
(キオス島の虐殺:wikiより)
16世紀前半、スレイマン1世のころに最盛期を迎えたオスマン帝国は1699年のカルロヴィッツ条約から領土の縮小が始まりました。この条約でオスマン帝国はハンガリーの大半をオーストリアに割譲します。
18世紀後半、ロシアのエカチェリーナ2世はオスマン帝国との戦いに勝利し黒海北岸をロシアの勢力圏に組み込みます。ロシアはたびたびオスマン帝国に圧力をかけ、露土戦争などでも勝利します。結果、オスマン帝国を弱体化させます。
19世紀初頭、ナポレオンがエジプトに侵攻します。ナポレオンについて詳しくは「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(フランス革命とナポレオン)【近代編その6】」を参考にしてください。
その後の混乱を収束させたムハンマド=アリーがエジプト総督となり、オスマン帝国から半独立の態勢をとりました。
そして、1829年、ギリシア人がオスマン帝国からの独立を求めて蜂起します。ロマン主義を背景として、ヨーロッパではギリシア人を救援すべきだという声が高まりました。同じギリシア正教徒のロシア軍がオスマン帝国軍に勝利し、ギリシアの独立が達成されます。
ちなみに、上のドラクロアの「キオス島の虐殺」と言う絵ですが、トルコ軍がギリシアの独立運動を鎮圧するためにキオス島で虐殺行為をします。そこで世論が一気にギリシア独立に向かい、ギリシア独立が承認されます。物事を強圧的に押し進めてもうまく行かない例ですね。
オスマン帝国の近代化
(ミドハト=パシャ:wikiより)
エジプトの半独立やギリシアの独立などで勢力が弱まったオスマン帝国は2つの近代化改革を行いました。
一つ目が19世紀前半に実施されたタンジマートです。スルタンのアブデュル=メジド1世はムスリムと非ムスリムの差別をなくし、近代的な法律や軍事制度を整えようとします。しかし、イスラム保守派の反対によりタンジマートは失敗します。結果、欧米諸国に対する借金が増えてしまいました。
二つ目は19世紀後半に制定されたミドハト憲法です。スルタンのアブデュル=ハミト2世の宰相、ミドハト=パシャが制定したアジアで最初の憲法でした。議会の開設や責任内閣制などを定めます。
しかし、1877年、露土戦争がはじまるとアブデュル=ハミト2世はミドハトを国外追放します。憲法に基づいて招集された議会はたった2回開かれただけで解散させられます。近代化の改革はいずれも失敗に終わり、専制政治に戻ってしまいました。
青年トルコ革命
(青年トルコ革命:wikiより)
1908年、日露戦争の勝利などに刺激を受けたオスマン帝国の青年将校たちは「青年トルコ」を結成し、改革を実行しようとしました。1908年、青年トルコ軍がサロニカで挙兵します。ミドハト憲法を復活させ、アブデュル=ハミト2世を退位に追い込みます。
青年トルコは日露戦争での日本の勝利から、ロシアの脅威を跳ね返すためには日本の明治維新ように古い体制を壊して立憲国家を作るべきだと考えたのです。
やはり、極東の一小国がロシアという大国と対等に渡り合い勝利したというのは世界の衝撃が大きかったのでしょう。
しかし、青年トルコ革命の混乱は列強諸国に付け入るスキを与えてしまいました。オーストリアはボスニア=ヘルツェゴビナを併合します。ロシアを後ろ盾とするブルガリアは独立を宣言しました。
青年トルコの政権は国内の保守派と対立を深めたため、オスマン帝国は改革どころか更に衰退してしまいました。1911年におきたイタリア=トルコ戦争でもオスマン帝国は敗北。北アフリカを失ってしまいました。
パン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立
オスマン=トルコの弱体化はバルカン半島をめぐる列強、諸民族の動きを活発化させます。オーストリアはドイツが提唱する3B政策に賛同し、パン=ゲルマン主義を主張してバルカン半島に勢力を拡大します。
一方、バルカン半島のスラヴ系民族を支援してきたロシア帝国はパン=スラヴ主義を掲げてロシア伝統の南下政策を達成しようとしました。日露戦争に敗北し東アジアで勢力拡大できなくなったロシアはバルカン半島で南下しようとします。
青年トルコ革命でオスマン帝国が混乱すると、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴビナを併合します。ブルガリアは独立を宣言します。スラヴ系のセルビア人は大セルビア主義をかかげ、オーストリアと激しく対立するようになります。
バルカン半島での争いは、そこに住む諸民族だけではなく列強を後ろ盾としていたため、大戦争に発展する危険がありました。そのため、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれます。
第1次バルカン戦争と第2次バルカン戦争
(ブルガリア軍:wikiより)
1912年、ギリシア北方にあるアルバニアがオスマン帝国に反旗を翻したことをきっかけにセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアがバルカン同盟を結成します。オスマン帝国に宣戦布告しました。
この第1次バルカン戦争では、オーストリアはオスマン帝国を、ロシアはバルカン同盟を応援します。戦いの結果はバルカン同盟の勝利します。オスマン帝国はアルバニアの独立を認め、ヨーロッパ側での領土の大半を失いました。
しかし、領土の配分をめぐってバルカン同盟内での対立が激化。第2次バルカン戦争が起きました。この時、オーストリアはブルガリアを、ロシアはセルビア、モンテネグロなどを応援します。
ブルガリアは他のバルカン同盟諸国と敵対関係になり孤立した戦いを強いられます。その結果、ブルガリアは敗北します。領土が大きく縮小しました。
戦いの中でブルガリアはパン=スラヴ主義を離脱します。オスマン帝国と共にドイツ・オーストリアと接近しました。第2次バルカン戦争後も領土をめぐる不満があり、第一次世界大戦のきっかけとなるサラエヴォ事件を引き起こすことになりました。
次回、いよいよ第一次世界大戦について述べます。次回の第一次世界大戦の記事はこちら
前回の帝国主義の記事についてはこちら
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