今回のテーマは、現代の国際政治です。この記事では以下の内容が学べます。
この記事からわかること
・冷戦体制の確立~終結までの大まかな流れ
・第三世界の台頭
・冷戦終結後の国際政治
初学者にも内容をきっちり理解してもらえるよう、わかりやすく解説しました。
また記事の後半には、今回のテーマに関連した入試問題を用意しています。この記事を読めば、冷戦時代の世界情勢が一通り学べますよ。
冷戦とは
(冷戦:wikiより)
冷戦とは、アメリカを中心とする西側の資本主義陣営と、旧ソ連を中心とする東側の共産主義陣営の対立のことを指します。
現代の国際政治を、大きく3つの時代に分けると以下のような感じです。
- 冷戦体制の確立(1940年代後半~)
- 緊張緩和(1950年代中盤~70年代後半)
- 冷戦終結(1980年代)
順を追って解説します。
冷戦体制の確立
冷戦がはじまるきっかけとなったのは、1946年にイギリスのチャーチル首相がおこなった鉄のカーテン演説です。
チャーチル首相は演説で「ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされている」と述べ、ソ連を批判しました。ソ連の影響下にある東欧諸国の情報が一切入ってこなかったからです。
ちなみに東欧諸国の例としては、
- ポーランド
- チェコスロバキア
- ブルガリア
- ルーマニア
- ハンガリー
があげられます。
(冷戦時代のヨーロッパ(ピンク色が東側諸国):wikiより)
ソ連は東欧諸国を社会主義化しようとしていました。しかしアメリカがソ連の動きに反発し、冷戦へと発展していったわけです。
そして西側陣営と東側陣営は、政治・経済・軍事の各方面で下記のように対立します。
西側陣営 | 東側陣営 | |
1947年:トルーマン=ドクトリン (社会主義封じ込め政策) →ギリシャ・トルコを支援 | 政治面での対立 | 1947年:コミンフォルム (共産党情報局) →各国の共産党間で情報共有を おこなう組織 |
1947年:マーシャル=プラン →第二次世界大戦からの復興を 目指す西欧諸国を経済面で支援 | 経済面での対立 | 1949年:経済相互援助会議 (COMECON) →社会主義諸国を中心とした 経済協力機関 |
1949年:北大西洋条約機構 (NATO) →アメリカを中心に結成された 西側諸国の軍事協力組織 | 軍事面での対立 | 1955年:ワルシャワ条約機構 (WTO) →ソ連を中心に結成された 東側諸国の軍事協力組織 |
(西側陣営と東側陣営の対立:オリジナル)
また1948年には、西側陣営と東側陣営の対立を象徴する出来事が起きます。ベルリン封鎖です。
(冷戦時代のドイツ:wikiより)
かつてのドイツは第二次世界大戦の敗戦を受け、西側を資本主義諸国(イギリス・アメリカ・フランス)が、東側をソ連がそれぞれ統治していました。
(冷戦時代のベルリン:wikiより)
首都であるベルリンも同じく、西側をイギリス・アメリカ・フランスが、東側をソ連がそれぞれ統治していました。
しかし地図を見ると、ソ連が統治する東ドイツの中に、西ベルリンがポツンと位置する不自然な状態であることがわかります。
そこでソ連のスターリン首相は、西ドイツと西ベルリンを結ぶ道路や鉄道を封鎖しました。これがベルリン封鎖です。
ソ連の狙いは、物資不足に陥った西ベルリンが自分たちに泣きついてくることでした。ソ連はのちのち西ベルリンを東ドイツに吸収しようと考えていたわけです。
しかしアメリカは、空から食料・燃料を送る作戦で対抗します。
困ったソ連は結局、1949年に封鎖を解除しました。
冷戦体制確立期のアジア
冷戦の影響は、ヨーロッパだけではなく、アジアにも及びます。
まずは中国です。1949年に中華人民共和国が誕生します。当初はソ連と友好的な関係にありました。
続いては朝鮮半島です。1948年に大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されます。韓国にはアメリカ、北朝鮮にはソ連と中国がバックアップにつきました。
北朝鮮は朝鮮半島統一を目指して南下政策を実施し、1950年に朝鮮戦争が勃発します。
当初は北朝鮮が韓国軍を南端まで追い詰めましたが、アメリカを中心に結成された朝鮮国連軍が参戦すると状況が一変します。北朝鮮は北端まで追い込まれてしまいました。
しかし北朝鮮側も中国の支援で息を吹き返し、戦争は北緯38度線あたりでこう着状態におちいります。
結局朝鮮戦争は1953年に板門店で休戦協定が締結され、現在に至ります。
最後は日本です。日本は1951年に日米安全保障条約を締結し、西側陣営に組み込まれました。
緊張緩和
1955年、ソ連・アメリカ・イギリス・フランスがジュネーブ四巨頭会談を開きました。
ジュネーブ四巨頭会談をきっかけに、東西対立緩和の動きが進みます。
1956年には、ソ連のフルシチョフ首相がスターリン批判を展開し、ソ連は平和共存政策へと転換していきます。
しかし中国はソ連の変容を修正主義だと批判しました。以降中国とソ連の対立が激化し、1969年の国境紛争へと発展していきます。対立が解消されたのは1989年のことでした。
一方東欧諸国では、共産党政権に対する民衆の抗議運動が活発化しました。
例としては、
- ハンガリー動乱(1956年)
- ポーランドでの反ソ暴動
があげられます。
1961年に東ドイツとソ連が、ベルリンの壁を建設しました。東ドイツ国民が相次いで西ベルリンに亡命したからです。
当時の東ドイツでは、ソ連の社会主義政策により自由が制限されていました。そのため、自由で豊かな生活を送っている西ベルリンに人々が流れ込んだのです。
人々の流出を食い止めるべく、東ドイツとソ連は、壁の建築に着手したというわけです。
そして1962年には、米ソ関係を大きく揺るがす事件が発生します。キューバ危機です。
きっかけは、ソ連が社会主義国のキューバにミサイル基地を建設しようとしたことでした。
アメリカに近いキューバがミサイル基地化すれば、アメリカにとっては脅威です。当然アメリカはソ連に猛反発して、一触即発の状態になります。
しかしソ連がキューバからミサイルを撤去することを約束したため、なんとか戦争の危機は回避されました。
ただキューバ危機の反省をふまえ、翌1963年にはホットラインが設置されます。
ホットラインとは、米ソの首脳間を結ぶ直通の電話回線です。偶発的な戦争の勃発を避けるのが狙いでした。
多極化
1960年代は、世界が米ソの二極から多極化へと変化を遂げた時代でもあります。
まずは1966年、フランスがNATOの軍事部門を脱退します。フランスは1960年に核兵器を保有したり、1964年に中国と国交を結んだりと、独自の外交を展開しました。
1968年には社会主義国のチェコスロバキアで、プラハの春と呼ばれる民主化運動が起きます。ソ連は軍事介入しましたが、失敗に終わり民主的な政府が誕生しました。
以降東欧では、社会主義からの離脱運動が始まります。
一方アメリカは、中国に接近していきます。1972年にはアメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、1979年に米中は国交正常化を果たしました。
当時のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼化に苦しんでいました。そこで中国に接近し、ソ連をけん制しようと考えたのです。
1970年代の出来事としては、1975年におこなわれた全欧安全保障協力会議(CSCE)もおさえておきましょう。
全欧安全保障協力会議は、ソ連を含むほぼすべてのヨーロッパ諸国とアメリカ・カナダなど35か国が参加した会議です。国境不可侵など平和的解決が盛り込まれた文書が採択されました。
新冷戦~冷戦終結
1950年代中盤〜70年代後半は、米ソ間の緊張緩和が進んだ時代でした。
しかし1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことで、米ソ間の関係が再び悪化します。新冷戦の勃発です。
1980年のモスクワ・オリンピックでは、アメリカをはじめとする西側諸国が相次いでボイコットを表明します。
お返しといわんばかりに、東側諸国も4年後のロサンゼルスオリンピックをボイコットしました。政治的対立はスポーツにも影響を及ぼしたわけですね。
また1981年には、レーガンがアメリカ大統領に就任します。レーガンはソ連に対して強硬な態度を示し、核軍拡を進めました。
きっかけは、1985年にゴルバチョフがソ連共産党の書記長に就任したことです。
ゴルバチョフは以下の3つに着手します。
- ペレストロイカ:改革・再建
- グラスノスチ:情報公開
- 新思考外交:アメリカとの間で軍縮交渉を実施
ソ連の改革に影響され、1989年にはポーランドをはじめ、東欧諸国で民主化が相次ぎます。
同じ年の11月にはベルリンの壁が崩壊し、12月に開かれた米ソ首脳によるマルタ会談で冷戦の終結が宣言されました。
翌1990年には東西ドイツが統一を果たします。
1991年末にはソ連が崩壊し、12の共和国からなる独立国家共同体(CIS)が発足しました。
冷戦終結後の国際政治
冷戦終結後(とくに21世紀)に起こった主な国際紛争は以下のとおりです。
- 2001年:同時多発テロ・アフガニスタン戦争
- 2003年:イラク戦争
- 2022年~:ロシアによるウクライナ侵攻
なかでも、2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロは世界中に大きな衝撃を与えました。
アメリカは事件の実行犯をイスラム過激派のアルカイダと断定し、アルカイダを支援するタリバン政権下のアフガニスタンを攻撃します。アフガニスタン戦争の勃発です。
2003年にはイラクが大量破壊兵器を保持しているとして、アメリカがイラクを攻撃します。イラク戦争はアメリカが国際社会の強い反対を押し切っておこなった戦争でした。
しかしイラクが大量破壊兵器を保有しているという証拠は見つからず、アメリカに対する批判の声があがりました。
最近では、ロシアによるウクライナ侵攻に世界から関心の目が向けられています。
第三世界の台頭
(第三世界:wikiより)
1950年代以降、東西どちらの陣営にも属さない第三世界が台頭します。第三世界とは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなど発展途上国の総称です。
ここでは第三世界が台頭する過程を見ていきましょう。
まずは1954年、中国の周恩来とインドのネルーが会談をおこない、平和五原則を発表します。
平和五原則の内容は以下のとおりです。
- 領土・主権に対する相互の尊重
- 相互不可侵
- 相互の内政不干渉
- 平等と互恵
- 平和共存
翌1955年には、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開かれ、平和十原則が発表されました。
平和十原則の内容は以下のとおりです。
- 基本的人権・国連憲章の原則を尊重
- すべての国家の主権と領土保全の尊重
- すべての人種・すべての国家の平等
- 内政不干渉
- 自衛権の尊重
- 大国による集団的防衛の利用と他国への圧力行使の阻止
- 侵略行為・侵略の威嚇の回避
- 国際紛争の平和的解決
- 互恵・協力の増進
- 正義と国際義務の尊重
1960年はアフリカの年と呼ばれ、アフリカで17か国が独立しました。
翌1961年には旧ユーゴスラビアのベオグラードで、第1回非同盟諸国首脳会議が開催されます。東西いずれの陣営にも加盟しない非同盟主義に加え、平和共存・反植民地主義が宣言されました。
なお世界史でも今回と同様の学習内容を扱っています。詳しくは「冷戦の展開と第三世界の台頭について【現代史第2回】」をご覧ください。
入試問題にチャレンジ
問 下線部ⓔ(冷戦)に関連して、1980年代前半は米ソ関係の緊張が一時的に高まった時期であり、80年に開催されたモスクワ・オリンピックにおいて西側諸国のボイコットなども起こった。緊張が高まるきっかけの一つとなった事件として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 米ソ間でキューバ危機が発生した。
② 東ドイツがベルリンで東西を分ける壁を構築した。
③ ソ連がアフガニスタンを侵攻した。
④ アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行った。
①:キューバ危機が発生したのは1962年のことです。
②:ベルリンの壁が建設されたのは1961年です。
④:アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行ったのは、1954〜58年のことです。
国連総会で採択された場合であっても、条約は関係各国の批准があってはじめて効力が生じるので誤りです。
まとめ
今回は、現代の国際政治について解説しました。学習内容のおさらいです。
- 戦後の国際政治の大まかな流れは、冷戦体制の確立(1940年代後半〜)→緊張緩和(1950年代中盤〜70年代後半)→冷戦終結(1980年代)だ。
- 新冷戦がはじまるきっかけは、ソ連によるアフガニスタン侵攻(1979年)だった。
- 1950年代以降、第三世界の台頭が進み、1955年のアジア・アフリカ会議では平和十原則が発表された。
この記事を繰り返し読んで、戦後の国際政治をしっかりマスターしましょう。最後までお読みいただきありがとうございました。
前回の記事「国際連合とは?国際連盟との違いや主要機関についてわかりやすく解説【政治第29回】」をご覧ください。
次回の記事「核軍縮の歴史についてわかりやすく解説(入試問題も用意)【政治第31回】」をご覧ください。
政治経済を理解するには「蔭山の共通テスト政治・経済」がおすすめです。政治経済の細かいところまで解説してくれるので、受験生はぜひとも一読をするとよいでしょう。
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